安岡教授の絵のモデルとなったユカリは、その日も美術学校の教授室でモデルの仕事をした。
ユカリ 松田画伯の息女
夕刻になり私は安岡教授の部屋を出ました。
作品の完成が近いせいか安岡教授はとても機嫌よく私を送り出しました。安岡教授には悪い噂もありましたが私は気になりませんでした。日本画壇に属していた父と交流がありましたし、幼いころから作品に執りかかると周りが見えなくなる父を見て育ってきたので、安岡教授の偏屈さは当たり前のことと思えました。
学校の玄関まで来て私は憂鬱になりました。送り迎えをしてくれる田村が日に日にしつこくなってきたからです。田村は校門の外で待っていました。安岡教授のご用で遅くなるから今日は先に帰るようにと言い渡しましたが、田村は納得しませんでした。遅くなるなら余計心配だ、それに今日こそ返事をきかせてほしい、と言いました。
田村は私に求婚していたのです。何度も断りましたが田村はあきらめませんでした。松田画伯から自分の才能は認められていた、ゆくゆくはユカリさんとの結婚をほのめかしていた、と言って譲りません。兄が知ったら怒って田村を追い出してしまうだろう、そう思うと兄に相談もできませんでした。こんな田村でも居なくなったら我が家は立ち行かなくなるのです。
校門から立ち去ろうとしない田村に、私はきっぱりと言いました。あなたとは結婚しません。この先もその考えが変わることはありません。
田村は感情を高ぶらせ嘆いたり私をなじったりしました。そして私の腕を掴み、強引に引きずろうとしました。
私は怖くなり、田村の手をふりほどいて走って美術学校の中へ戻りました。ところが田村は校舎の玄関を開けて美術学校の中に入ってきたのです。私は急いで階段を上り2階へ逃げました。
田村が追いかけてくるのが見えたので廊下の奥まで走り校長室の表札がある部屋へ逃げ込みました。校長先生、助けてください、そう叫ぼうとしましたが、部屋には誰もいませんでした。広い室内に人の気配はありません。私はドアへ戻り鍵をかけようとしましたが、田村はすでにドアのところに辿りついたらしく、ドアを閉めようとした私の力は簡単に押し戻されてしまいました。田村はやすやすと校長室の中へ入ってきました。
女子の学校へ入ってくるなんて許されることじゃない。誰かに見つかったら牢屋行きになる。私の説得に耳も貸さず、田村は理性の箍が外れてしまったようで、逃げる私を部屋の隅へと追い詰めました。逃げ道は塞がれていました。高窓から西日が射しこんでいました。狂気に満ちた目で近付いてくる田村を見て、捕まったら終わりだ、なんとしても逃げなければと私は焦りました。窓だ、あの高窓から逃げよう、咄嗟にそう考えた私は、側にあった椅子を窓際へ寄せて上りました。田村の腕と顔が迫ってくるのが見えました。
そのあとのことはよくわかりません。椅子から落ちたのか、田村に引きずられたのか、それとも高窓にぶつかったのか。私の意識は遠のきました。
その時、視界の片隅に、壁に掛かった絵が映りました。助けて。絵の中に描かれている女性と目が合いました。その目を一瞬凝視して叫びました、助けて。
目が覚めた時、私は暗闇の中にいました。暗闇のなかで小さな灯りを見つけました。丸いテーブルの上で蝋燭が火を灯していました。私はテーブルに近付いてそっと席につきました。
その時からずっと、私は蝋燭を囲んでテーブルに座っているのです。
田村 松田画伯の弟子
ユカリの腕を掴もうとした田村は、目の前でユカリの姿が見えなくなり、右手はむなしく宙を掴んで漂った。
「ユカリさん」
田村は部屋の中を見回した。広い校長室だったが死角はなかった。
「一体どこへ」
田村は部屋の中をうろつきまわった。田村は混乱した。自分の頭がおかしくなったのか、それともこれは全部夢なのか。田村は窓に近付いた。窓の鍵は全部施錠されていた。窓を一つ開けてみた。夜の帳に覆われて鬱蒼と茂った木々の影がそこかしこに見えるだけだった。振り向いて室内を見た田村の目が壁に釘づけとなった。壁には一枚の絵が飾られていた。
「う、うそだ」
田村は狼狽し後ずさった。
田村が凝視する目の先には一枚の絵があった。
その絵の中にユカリがいた。ユカリは振り返り田村を一瞥するとテーブルを回って向こうの椅子に腰かけた。
「先生、こちらで物音が」
廊下から声が響いた。校長室の扉の前で足音が止まり、今にも扉が開かれて誰かが入ってきそうだった。
田村は開けた窓を閉めて逃げ道を捜した。奥に物置のような部屋が続いているのがわかり、そちらの部屋へ逃げ込んだ。その部屋の扉からそっと廊下へ出て田村は美術学校を後にした。
松田家
翌日、洋平にユカリの所在を訊かれた時、田村はうまくはぐらかした。
「美術学校でまだ用があるから先に帰るように、と言われました」
「まさか、そう言われて、ユカリを置いて、一人で先に帰って来たのか?」
「はい。私は家の用事がありましたので」
「その後、ユカリはいつごろ帰ってきたんだ」
「わかりません」
「わからないって、なんのための付き添いだ」
「このごろユカリさんは、あまり何か訊いたりすると嫌がりますので」
田村は申し訳なさそうな表情を浮かべて答えた。
「必要な時以外はそばに寄らないようにしているんです」
「それでも帰宅の確認ぐらい、するのが当たり前だろう」
洋平は感情的になり声を荒げたが、すぐに黙った。
自分こそ周りの物事に無関心であり、ユカリの不在もカヤさんに言われるまで気付かなかった。ユカリのことはもちろん常に気にかけていたが、一言も言葉を交わさない日がしょっちゅうだった。
「すみませんでした。今後は気をつけます」
田村が殊勝な様子で謝ると、洋平は不満そうな表情を見せたが、それ以上何か言ってくることはなかった。
あのインテリぶった半人前の兄にユカリを任せるわけにはいかない。松田画伯が亡くなった後、田村はいっそうその思いを強くして、ユカリを守るのは自分しかいないと心に決めていた。
昨夕の件を洋平に話すつもりはなかった。俺が自分でもう一度あの美術学校へ忍び込み、あの絵を持って帰ろう。そしてユカリを絵の中から出してあげるのだ。それが出来るのは自分しかいない。ユカリ、俺がそこから助けてあげる。おまえを救ってやるからな。なに、絵から出て来なくったっていいさ。俺の側にずっと置いておく。俺はいつでもいつまでもユカリの姿を思う存分眺め尽くすのさ。その妄想は田村をいたく愉快にさせた。なにがお嬢様、お坊ちゃまだ、しょせん親が死んだら何もできない世間知らずだ。これからは俺の思うようにこの家を取り仕切ってやる。田村は洋平を気遣うそぶりを見せながら、心の中で下卑た忍び笑いを繰り返した。