物語だんだん

だんだん物語となるべし段の談

嘆きのハンス

画像 トーラとハンスと母

「鍵は開かなかった」ハンスはベッドにうつぶせになり泣いていました。「鍵も縄もこんなに上手なのに、トーラは僕のこと、マイスターじゃないって言うんだ」ハンスが何故マイスターになれないのか、私は理解しました。私がいる間、この世界に存在している間は、まだ駄目なのだ。代替わりをしなければ。 「地下室へ、行きます。その絵を持って、付いてきなさい」

画像 マンガ ベッドで泣くハンス

 地下室

「トーラ、あなたに、鍵は、開けられない」

 暗い地下室の廊下に、ギヨン夫人とハンスが立っていた。

 

「鍵を、よこしなさい、私が、開けます」

「い、いやよ。マスターキーは私のものよ」

 鍵穴に差さったままの鍵をトーラが抜こうとする前に、ハンスが素早く扉に駆け寄り、鍵穴から鍵を抜き取った。

「お母様、やったよ」

 ハンスは満面の笑みで母親へ鍵を渡した。

「ハンス、わからないの?あれはお母様じゃなくて死体なのよ」

「いいえ、トーラ、私は生きているのです」

 

 ギヨン夫人は手にした鍵を扉に向けた。指先は干からびて震えていたが、黄金の鍵は吸い込まれるように鍵穴へと差し込まれた。
 鈍い金属音が響き、扉はいとも簡単に開いた。

「開いた」

「そんな」

「すごいよ、お母様。お母様こそマイスターだったんだね」

 ギヨン夫人は地下倉庫のなかに入った。倉庫の中は真っ暗闇だったが、塵ひとつなくきれいな空気が漂っていた。ランタンを手にしていたサトウがギヨン夫人の後に続き、トーラとハンスもあわてて後を追いかけた。

 広々とした地下倉庫には壁際に棚が並んでいた。棚にはたくさんの種類の縄や様々な形状の鍵や錠前が大切に保管されていた。

 ギヨン夫人は迷わず奥の一角へ歩み寄り、小さな麻袋を取り上げた。

「これが、ギヨン家に伝わる秘薬です」

 干からびた指先で麻袋を掲げながら、ギヨン夫人はみんなの顔を見回した。

 母の独白

 それは死なない薬なのです。私は秘薬を飲んで定められた世界へ行くはずだった。そういう定めだったのに、お父様は私を押しとどめた。お父様は私を失いたくないと言いました。それは本心でしょうが、研究者としての探求心を押さえることができなかったのでしょう。秘薬を飲むとどうなるのか、お父様は私をあの隠し部屋へ置いて観察を続けました。しかしあの薬は老いや病を治したりできないのです。死なないだけです。醜く老いていく私をお父様は直視できなくなり研究を諦めることにしました。ところが老いと病は私の目を閉じさせました。私はもう目を開けることができなかったのです。私はそのままあの部屋の棺に眠り続けました。

「お母様」

 ハンスの声に私は目を覚ましました。
 ハンスは私を見て驚きました。しかしハンスは、溢れんばかりの愛情のこもった瞳で私を見つめていました。
 そしてハンスは私の顔に触れたのです。
 その瞬間、雷鳴のような何かが轟きました。 

 ハンスが立ち去ったあと、あたりは静まり返っていました。ハンスが触れたことで何かの封印が解かれたのかもしれません。身体のなかを温かい血が流れ始めたような気がしました。私は自分の手が動くのに気付きました。私は動けるようになったのです。棺の蓋は開いたままでした。私は棺の縁に手を掛けて、そうっと起き上がりました。棺を出て歩いてみました。そして部屋の扉を開けて廊下に出たのです。

 私は廊下に掛けられている絵を見ないようにしました。

 こんな干からびた死体のようになっていながら、壁の絵の人物と目を合わせてはいけない、という昔からの言い伝えを守ってしまうのでした。

 ですが私は知っていました。私が助かるにはこの絵に頼るしかないのだ、ということを。

 母と子

「これは死なない薬です。これを飲めば、死なないけれど老いていきます。この秘薬はハンスのもの。ハンスはこの家を受け継ぐのですから」

「いきなり現れて勝手なことを言わないで。この家を継ぐのは私よ」

「いいえ、ハンスは、私を目覚めさせた。それは当主の証です」

「うそよ。お母様はいつもハンスのことだけ可愛がっていた。だからハンスに継がせたいのよ」

「そんなことはありません。ハンスは立派な城主となることでしょう」

 トーラは手にしていたランタンを母親に投げつけようとした。

「あぶない」

 サトウはトーラを押さえつけた。

「はなして。私が今までどんなにこの家のことを考えてきたか知りもしないで」

 

「ハンス、あの絵をここへ」

 ハンスは廊下に立てかけていた額縁を母親の前へ持ってきた。
 トーラは子どもの頃からのクセで思わず目をそらした。

「ハンス、絵をこちらに向けて」

 ハンスは絵を夫人の正面へ向けた。
 ギヨン夫人はハンスに笑いかけた。

「この絵の言い伝えは知っていますね」

 トーラはゴクリと唾を飲んだ。

「お母様、まさか、絵の中へ、行くつもり?」

「お母様、どこにも行かないで」

 ハンスがギヨン夫人に抱きついた。

「言うことを聞けば一緒にいてくれるって約束したじゃない」

 ギヨン夫人はハンスの金色の髪を優しく撫でた。

「私がこの世界で生き続けることは許されないのです」

「言いたいことだけ言っていなくなるなんて卑怯よ。逃がさないわ。ハンスが継ぐなんて認めない。よくも私をないがしろにしたわね」

 サトウの手を振りほどいてトーラは母親につかみかかろうとした。

「代替わりをしないといけません」

 ギヨン夫人は慈愛を込めた目でトーラに微笑みかけた。そしてハンスの抱えた絵を見つめた。きっと、絵の人物の目を見つめているのだ、誰もが固唾を呑んでギヨン夫人を見守った。あっという間の出来事だった。目の前で、消えたわけではなく、するするとその場からいなくなってしまったのだ。

画像 マンガ 地下室の母と子

「お母様?どこへ行ったの?」

 ハンスは持っていた絵を裏返して覗き込もうとした。

「よしなさい」

 トーラがハンスの手から絵を奪い取った。

「お母様!」

 トーラの持つ絵を見つめたハンスが大きく声を上げた。
 つられてトーラとサトウも絵を覗き込んだ。
 つい今しがたまでここにいたギヨン夫人が、絵の中に立っていた。

 それは一瞬のことだったのか、あるいは長い時間が流れたのか。干からびたミイラのようなおぞましい姿をしたものが、みるみる人間の体を成したものへと変わって行った。肌の色がどんどん明るくなり瑞々しさを取り戻し、深いしわの刻まれた顔は張りのあるものへと変わっていった。

 美しく気高い婦人が絵のなかに立っていた。

「お母様、きれい」

 ハンスは嬉しそうに絵に見入った。

「絵のなかでは、若返るの?」

 母親の姿に眼を見張ったトーラがつぶやいた。

「この絵こそが、秘法?」

 絵のなかの美しい婦人は皆を見回してからテーブルの席についた。そしてそれきり動かなくなった。