タイトル:異国の森の診療所
舞台:美術学校
登場人物:サキ メグミ フミ 山本先生
フミ
フミは次の停留場で降りるため乗降口の近くへ移動した。
「すみません」
前方にいた男性と軽くぶつかってしまい謝ると男性も「失礼」と会釈した。男性は身体の向きを変えると、つり革をつかんだ。袖口から肘がのぞいた。フミはその腕を見て目をみはった。傷跡、長方形の傷で皮膚が引きつれている。左手。フミは凝視した。
男性はフミの視線に気づいて、つり革を右手に持ち替えた。
「あの」
フミが声を掛けようとした時、路面電車は停留場に着いて、フミは他の乗客に押されるようにして外へ出た。
通りから路面電車の窓を見上げたが、男性の姿はもう見えなかった。
「サキさん、メグミさん」
寄宿舎の食堂にフミが駆け込んできた。
「どうしたの、フミさん」
「あの、ほら、傷痕の」
「なあに、また、傷のある人はいませんでしたって報告かしら?」
メグミの言葉にサキは吹きだした。
「ちがうの、見たの、左手に傷のある男」
「えっ、本当?」
「どこで?」
サキとメグミは矢継ぎ早に声を上げた。
「さっき市電に乗ったとき。いたの、はっきり見た」
「本当に傷だった?大きくて四角い感じで、かなりひどいアトのはずよ」
「うん、そういう傷だった」
「どんな人だった?医学生?」
「それがちょうど降りる時で」
「じゃあ、その人と何も話していないの?」
「市電が混んでいて、立ち止まって話せる感じじゃなかったの」
「顔は見たのでしょう?」
「ええ、どこかで会ったらすぐ判る」
「フミさん、どこかで会う機会なんてこの先ないかもしれない。絶対、引きとめて話を聞くべきだったわよ」
「そんなことないよ、フミさん。見ず知らずの殿方に声かけるのなんて勇気がいるよ」
「そうだ、フミさん、顔を見たのなら似顔絵かいてよ」
「うわっ、そうだね。うん、今描く。スケッチブック、今持っているから」
フミは手提げからスケッチブックを取り出しサラサラと鉛筆を走らせた。
サキとメグミはフミの描く絵を覗き込んだ。
「幾つぐらいの人だった?」
「えっとね、若い人だった。学生かもしれない」
「サキさん、どう、思い出した?」
「思い出すも何も、あの時、顔見てない。どんな顔か知らないもの」
「うーん、唯一の手掛かりがこの似顔絵ってことか」
フミは似顔絵に陰影をつけて更に描き進めた。
「それから頬はこんな感じで・・」
「フミさん、あんまり描きこまないで。芸術的にしないで。これじゃ、若いのか年配なのか、判らなくなっちゃったじゃない」
「本当、これじゃ抽象画だわ」
三人は大きな声で笑いころげた。
メグミ
メグミは制服で通りに出た。私用での制服の着用は禁止、と学校から言われていたが、メグミは制服で街を歩くのが好きだった。外へ出る前に、上着をキチンと羽織ってスカート丈がおかしくないか点検した。今度、学校に被服科も出来るらしいから、講義を受けてみたいわ。そんなことを考えながら路面電車の停留場まで歩いた。今日は先生のお使いで銀座の画廊まで行く。大手を振って制服を着て街を歩けるのが嬉しかった。
ちょうどやって来た路面電車に乗り込み、銀座へ向かった。窓から見える街には人があふれていた。通りを早足で行く人、沿道のお店に出入りする人。忙しそうな人々とのんびり歩く人々で街はごった返していた。
「あら、あの制服」
通りの向こうに同じ制服姿が見える。
「えっ、フミさん?」
大通りでフミは誰かと話していた。
「男性といるわ。お知り合いかしら」
人混みに紛れてフミの姿は見えなくなった。
フミ
御茶ノ水の画材屋からの帰り道、フミは四つ辻のところであの男性を見つけた。
「間違いない。あの人だ」
フミは今度こそ逃すまいと思った。急いで男性に追い付いた。
「すみません」
声を掛けると男性は振り向いた。
「突然おそれいります。先日、市電の中であなたをお見かけしました」
男性は不思議そうな顔をして少し考えた。
「そうでしたか。ちょっと失念しておりまして」
「あの、失礼ですけど、その時、左の腕の傷を見てしまいまして」
男性の顔色が変わった。優しそうだった目が急に険しくなった。
「人ちがいでしょう」
男性は足早に歩きだし、大通りを往き来する人混みに紛れてすぐに見えなくなった。
フミは心臓がどきどきした。怖かった。あの目、人を射るような眼光だった。何か踏み込んではいけない気配があった。
「こわい、私、何か悪い事したのかな。怒っているみたいだった」
フミは学校へ向かってとぼとぼと歩き出した。気持ちがふさいだ。今日のこと、サキさん達に話すのよそうかな。あの目を思い出すと身がすくむ。これ以上あの人と関わりたくない。きっと、傷痕のことを人に知られたくないんだ。あんなにひどい傷だもの。私、もう傷のこと訊きたくない。
メグミ
「サキさん」
学校へ戻るとメグミはサキを捕まえて話し出した。
「きょう私、先生のお使いで銀座まで行ったでしょう」
「お疲れさま。メグミさんはしっかりしているから、いつもお使い頼まれるね」
「それでね、その時、私、市電の窓から見ちゃったの」
「何を?」
「フミさん。フミさんが殿方と話しているところ」
「えっ、殿方と」
「遠くから一瞬見ただけだけど、確かにフミさんだったわ」
「誰といたのかな。私たちの知っている人?」
「そんなわけないでしょう。殿方で私たちの知ってる人なんて、安岡教授くらいよ」
フミ
デッサンの授業中にフミはスケッチブックをパラパラとめくっていた。一枚の絵のところで手がとまった。そこには男の似顔絵があった。メグミたちに請われて描いた、腕に傷のある男の絵だった。フミは新しいページを開いて、鉛筆で男の顔を描き始めた。あの時こわかった。人を射るような鋭い眼差し、人を恐怖に陥れる眼差し、しかし自分で改めて描き始めてみると、微かな悲哀がその瞳に表れてきた。フミは鉛筆を走らせながら、この男性に抱いている恐怖が少しずつ薄らいでいくのを感じた。
「フミさん、何をしているのです」
フミの前に山本先生が立っていた。
「山本先生、すみません」
フミは急いでスケッチブックのページを閉じようとしたが、山本先生はフミの手からスケッチブックを取り上げた。
「モデルのデッサンはどうしたのです」
「すみません、先生。すぐにやります」
「これは誰ですか」
「知らない人です。道で見掛けた人ですが気になって、つい描いてしまいました」
山本先生はフミのデッサンをじっと見つめた。
「さっさと課題に取りかかりなさい」