物語だんだん

だんだん物語となるべし段の談

地下室の鍵

画像 異国の森の診療所

トーラはサトウを連れて実家へ戻ったが、父から結婚を反対された。トーラは代々続く診療所の跡取りだった。サトウと結婚して家を出ることは許してもらえなかった。

ハンスとサトウ

 サトウはハンスを見直した。苦労知らずのやんちゃな御曹司に思えたハンスだが、トーラの学業への熱心さを考えれば意外なことではなかった。ギヨン家には勤勉さという誇るべき気質が息づいているのだ。

「これは投げ出すわけにはいかないんだ。サトウは、投げ出すなら今のうちだよ。さっさとこの家から逃げ出したほうがいいと思うよ」

 ハンスは縄に熱中し始めてサトウへはもう見向きもしなかった。

トーラとハンス

「ハンス、地下室の倉庫の鍵を開けてほしいの」

「あの秘薬の?無理だよ。ほかの地下室なら開けられるけど、あれだけは何度やってもダメだった」

 

 その夜、地下室への階段を下りるふたつの影があった。

「ほら、この錠前、ここでしか見たことないような特殊な形だろ」

「ペーターに何かうまいこと言って、鍵を取ってらっしゃい」

「だめだよ。鍵置き場に、ここの鍵だけはないんだ。子どもの頃から何度も探したけど」

「どこかに隠してあるのね。お父様の部屋かしら」

「とっくに探したよ。お父様の部屋にもなかったさ」

「私たちが絶対行かないような所に隠してあるんだわ」

「ねえ、鍵が開いたら秘薬をどうするの」

 トーラはハンスを睨みつけた。

「いい?ハンス。私は東の最果ての国ヤーパンへ嫁ぐけど、この家の秘薬は私のものよ」

画像 ギヨン家長女トーラ

ギヨン家長女トーラ

 ハンスはトーラの顔を見てたじろいだ。

「わかってるよ。どうせ、お父様は僕に秘薬を渡すつもりはないさ」

「そうよ。あなたはおとなしく私の言うとおりにしていればいいの」

 トーラは地下通路の冷たい石壁に寄りかかった。

「私たちが遊ばなかった場所、近寄らなかった場所ってどこだろう」

「診療所や薬品庫、かな」

「あそこは人の出入りが多いわ。もっと人目につかないところ」

「ああ、僕、怖くて行かなかった所あるよ」

画像 トーラの弟ハンス

トーラの弟ハンス

「北棟の客間の奥。あそこの廊下に絵が掛かっているだろ」

「あれか。小さい時から、あの絵には近付かないようにしていたっけ」

「そうだよ。絵の人物と目が合うと、絵のなかに引きずり込まれるって、さんざん脅かされて」

「怪しいわね。その絵、見に行きましょう」

 ハンスはクルリと踵を返すと階段を駆け上った。

「いやだよ。僕は絶対、行かないからね」

 捨て台詞が階段の上から響いて、ハンスの姿はたちまち見えなくなった。

「この臆病者」

 トーラは地下室の石壁を叩いてその痛さに思わず顔をしかめた。

画像 ハンス

ハンスはクルリと踵を返すと階段を駆け上った

サトウとトーラ

 サトウはトーラに連れられて暗い廊下を歩いていた。トーラは壁にかかっている絵の前で立ち止まった。

「サトウ、この絵を見てはいけない」

 視線をすでに絵のほうに向けていたサトウは驚いた。

「この絵の人物と目が合うと、絵のなかに引きずり込まれてしまう。そういう言い伝えがある」

「もっと早く言ってくれよ。あやうくじっくり見るところだった」

 この城に来てからというものサトウは今までの暮らし、故郷の日本や欧州の医学校での勉学、そういった日常から心が乖離しつつあった。門外不出の秘薬だの先祖伝来の秘術だの、怪しげな話が飛び交い、現実とかけ離れた別世界を浮遊しているかのような気分だった

 そしてトーラの威圧に満ちた声が耳もとで響く。

「サトウ、試しに見つめてみたらどう?」

 トーラはサトウと同じくらいの背丈だったが、時に見下ろすようにしてサトウに指示を出す。トーラはこんな女性だっただろうか。私の愛した女性はこの人なのだろうか。自分はまるでトーラの操り人形だ。そんな暗鬱とした思いが胸をよぎった。

「ここは子どもの頃から近付いてはいけない場所だった。きっとここに地下室の鍵が隠されていると思う」