物語だんだん

だんだん物語となるべし段の談

佐藤先生の往診

画像 洋平とユカリ

松田画伯が事故により急死した。洋平とユカリは孤児となった。

 松田画伯の家

「洋平君、この度は本当にご愁傷さまです」

 玄関で帽子を取った佐藤先生は高い背を折り曲げながら挨拶した。

「佐藤先生、ご無沙汰しています」

「葬儀のときに会ったのだよ。君は放心状態だったから覚えていないだろうが、ずっと心配していました」

「ぼくは大丈夫です。それより今日はユカリをよろしくお願いします」

「洋平君、もっと頼ってくれたまえ。いつでも相談にのるから」

 洋平と佐藤先生は階段を上りユカリの部屋へ向かった。

 

「ユカリ、佐藤先生がお見えだよ」

 部屋に入ると、ユカリは力なくベッドに横たわっていた。人と会うのを嫌がるかと思っていたが、田村が伝えに行くとユカリは佐藤先生の往診を承諾した。ユカリにとって佐藤先生は身内に近い存在なのかもしれない。母親の最期を看取ったのも佐藤先生だった。

 ユカリとまともに顔を合わせるのは葬儀の時以来だった。頬はこけ眼には異様な光をたたえている。どこかあらぬ世界を見つめているかのような目だった。

「ユカリ、具合はどうだい」

「大丈夫。兄さんこそ、ひどい顔している」

「そうかな」

「ユカリさん、お久しぶりです」

 佐藤先生はベッド脇に歩み寄りユカリと挨拶を交わした。洋平は階下で待つことにした。

 

「兄さん、心配かけてごめんなさい。私はもう大丈夫」

 佐藤先生を見送ったあと、ユカリが言った。先生の往診前とはうって変わって、張りのある声だった。

 佐藤先生からは、栄養剤の注射と飲み薬を処方されて今日の診察は終わった。

「兄さん、ここに座って」

 ユカリにうながされて洋平はそばの椅子に腰かけた。

「兄さん、秘密の話があるの。佐藤先生から聞いた話、兄さんにだけ教えるね」

 洋平は心配だった。佐藤先生の往診で、間違いなく朝より元気になってはいるが、その顔は、どこかうわの空で心ここにあらず、という表情をしていた。

「あのね、お母様は生きているの」

 洋平は絶句した。何を言っているのだろう。佐藤先生は何を言ったのだろう。

「兄さんの驚いた顔、おかしい」

 ユカリは頬をゆがめて笑った。久しく聞いていなかったユカリの笑い声だった。

「兄さん、私の頭がおかしくなったと思っているのでしょう」

 洋平は黙っていた。言うべき言葉が見つからなかった。

「佐藤先生がドイツへ留学した時の話をしてくれたの」

 

 それは不思議な話だった。ユカリが自分で作ったお伽噺を聞かせているのではないか、洋平はそんな気がしてきた。ユカリの声は洋平の耳を右から左へと通りすぎていくだけだった。それでも、臥せって気力も萎えていたユカリが、こうして声を出してしゃべり続けている、そのことに洋平は安堵していた。

画像 洋平とユカリ

ユカリの言葉に洋平は絶句した

 佐藤先生

 私がどのようにしてあの絵を手に入れたのかお話しする時が来たようです。

 できることなら忘れてしまいたい、しかし手放すことができない、あの一枚の絵がどこから来たのか、どのように私を苦しめるのか、洗いざらい打ち明けましょう。

 

 私の人生は傍から見れば順風満帆な誰もがうらやむくらいの良き人生と言えるかもしれません。しかし、どの人生、どの暮らしにも、他所からはわからない苦難、苦痛がつきものです。振り返れば、私の人生も不思議な出来事に翻弄された数奇な人生であったように思います。

 

 医者を志して勉学に励み、医科大学に合格した時は、歓喜に胸が打ち震えました。これから医学を勉強し、病に苦しむ人々の手助けをするのだ、と希望に胸を膨らませました。入学後は真綿が水を吸い込むように、新しい知識、新しい概念、そう、新しい世界すべてを吸収し、考え、学び、研究しました。

 無事、国家試験に合格し晴れて医者になった時には、自分を誇らしく思いました。世界が輝いて見えたものです。

 

 優秀な成績で医科大学を卒業し、外科に入局して、医術の仕事に邁進しました。そして明治30年にヨーロッパへ留学したのです。

 ウイーンの港へ降り立った時、29歳の私は、希望に胸を膨らませていました。ヨーロッパの最新の医術を学ぼう、外科の技術を研鑚しよう。私の頬は、さぞや薔薇色に上気していたことでしょう。

 

 その娘はトーラという名でした。

 留学生の私を迎えて同僚たちが歓迎会を開いてくれました。その時に一人だけ女性が混じっていました。たった一人の女性だったので、私は雑用などのお手伝いさんかと思っていました。しかし研修ガイダンスが始まり、病院内の回診の時にも同行していたので、不思議に思い、外科の先輩医師に尋ねてみました。

「彼女はどういう役割の人なのですか」

「トーラは内科を希望しています」

「内科?えっ、医者なのですか」

 それまで女性の医師についてほとんど見聞なかった私は驚きました。

「トーラは医学生です。お父上が診療所を経営しているのです。この大学を卒業したら診療所を継ぐそうです」

画像 サトウとトーラ
卒業したら父親の診療所を継ぐのです