朝稽古の仕上げに竹を切った。太刀の切れ味はまあまあだった。洋平は落ちた竹を片付けて庭を軽く掃いた。放っておいてもお手伝いのカヤさんがきれいに片付けてくれるのだが、師匠の深谷家元がいつも自分で道場の雑巾掛けまでしているので、洋平は稽古の後始末は自分でするようにしていた。
洋平
居合いを始めたのは偶然だった。師範学校の近くにある道場の庭で、いつも掃き掃除をしている老人がいた。顔見知りになり挨拶をしているうちに家元であることがわかり通うことになったのだ。
師範学校へ入るまでは武道に接したことはなかった。しかし元来器用な洋平はどんな運動、種目も卒なくこなした。学業も優秀で身体能力も高い洋平は幼少の頃からなんでもできる子どもだった。
洋平は広い洋館で裕福に育てられていたが、中学校に上がる頃になると、病弱だった母親が寝付くことが多くなった。お手伝いのカヤさんが雇われて、小さい妹の面倒を見ることになった。
居合いの家元に初めて稽古をつけてもらう時、自分は器用にこの武道をこなすのだろうとおぼろげに思っていた。しかし、こなすもなにも師匠の稽古は準備体操と走り込み、そして中腰になる居合い腰の練習、そればかりで素振りさえ滅多にさせてもらえなかった。師匠は洋平が練習の手を抜くとすぐに見抜いて、さらに厳しい鍛錬を洋平に課した。基礎をみっちりやらされることに辟易しながらも、洋平は稽古に通い続けた。
ユカリ
「兄さん、またソファで寝ちゃったのね」
洋平は眠い目をこすり、ソファの傍に立つユカリを見上げた。カーテンの隙間から朝の光が射しこんでいた。
「絵が仕上がったの。兄さん、見に来てちょうだい」
ユカリはソファにしゃがみこんで洋平の顔を覗いた。
「おまえこそ徹夜だったのか」
洋平は起き上がり改めてユカリを見た。ユカリは束ねた髪を振り乱し、絵の具だらけのエプロン姿だったが、上気した頬が桃色に輝いていた。
「僕が見たって、何の批評もできない」
「批評なんかいいのよ。兄さんに見てもらいたいの。さあ、早く来て」
ユカリになかば強引に手を引かれ、松田はアトリエに入った。
キャンバスに描かれていたのは机の上の皿や花瓶といった静物だった。ああ、ユカリらしい絵だ。ほっとする絵だ。
「どう、兄さん、気に入った?」
「ああ、色が好きだな」
「それだけ?もっとこう、感動した、とかないの?」
「なんだよ、感動って。そんなの父さんに訊いてみろよ」
「兄さんに見てもらいたいの」
ユカリは洋平の背中に手をまわして笑った。
「やめろよ、絵の具がつくじゃないか」
そう言いながら洋平は苦笑いした。
昨年、母が病気で亡くなってからユカリは自室にこもって絵画に熱中することが多くなった。それまでも画家である父の影響を受けて絵を描いていたユカリだが、母を失い、それからは一層、絵に夢中になった。父はそれを喜び、自分のアトリエの隣りにユカリ用のアトリエをわざわざ作って絵の手ほどきをした。
洋平は絵を描くことが好きだった。しかし、父の制作の邪魔をしないようにと、小さい頃から絶えず言われていた。それを言う病弱な母を気遣っているうちに、いつのまにか人前で絵を描くのをためらうようになった。そして母が亡くなると、その喪失を振り払うかのように絵にのめり込み始めたユカリ、それを愛おしむ父。父とユカリが醸し出す絵画への情熱が家の中を支配していった。そうした気配は洋平を息苦しくさせて、次第に絵筆を持つ気力を失わせていった。
洋平は自分の部屋で気まぐれにデッサンを始めると時間を忘れて描きこむこともあった。幼い頃は自分も画家になるのだと何の疑いもなく思っていた。だが結局、洋平は去年の秋に湯島にある師範学校へ入学した。教員になりたい訳でもなく、画家よりほかにやりたいことも見つからないまま、もうすぐ二年生になろうとしていた。
松田画伯
深谷師匠と知り合ってからは、師範学校の帰りに道場で稽古することが日課になっていた。ある秋の夕暮れ、道場を出るとあたりは既に薄暗くなっていた。家の門木戸を入り玄関へ向かうと庭から父の声がした。
「おかえり、ユカリ」
植込みの奥から父がやってきて洋平の顔を見ると足を止めた。
「なんだ、洋平か」
なんだはないだろ、洋平は心の中で言い返した。
「ユカリじゃなくて悪かったな」
「なにを訳のわからないことを言っているんだ。今、庭を見ていたのだ。先日の植木屋が切りすぎて、松も木犀も丸坊主だ」
「さっぱりしていいじゃないか」
そう言い捨てて洋平は玄関を入った。家の中では煮物の匂いが漂っていた。お手伝いのカヤさんが夕食の準備をしていた。
「洋平さん、おかえりなさい」
田村が近付いてコートを脱がせようとした。
「いいよ、自分でやる」
田村はそれでも手を出そうとしたが、玄関から松田画伯が入ってくるのを見ると、すぐにそちらへ飛んで行った。田村は住込みの父の弟子で、普段は家の雑用を手伝っていた。父が見込んで弟子にしたのであろうが、洋平には田村に絵の才能があるとはとても思えなかった。ただ、実直で几帳面なところがユカリやカヤさんに重宝がられているようだった。
「兄さん、おかえりなさい」
ユカリが階段を下りてきた。
「ただいま」洋平はユカリとすれ違い二階の自室へ行こうとした。
「兄さん、ちょっと待って。お話しがあるの」
洋平はユカリに促されて居間のソファに座った。
洋平の向かいに腰をおろしたユカリは背筋を伸ばして言った。
「私、美術学校へ行こうかと思うの。兄さん、どう思う?」
「いいんじゃないか。好きなようにしろよ」
庭から戻った父が居間へやってきてユカリの隣りに腰かけた。
「私は賛成だよ。ユカリの絵には人の心に訴えかけるものがある」
「じゃ、決まりだ」
洋平が腰を上げようとするとユカリが洋平の手をとって引き止めた。
「兄さん、私、思うんだけど、兄さんも美術学校へ入り直したらどうかしら」
ユカリの言葉に洋平は思わず気をそそられた。
「だいたいおまえは師範学校で真面目に勉強する気があるのか」
父が洋平に向かって言った。
「いつも帰りが遅いようだし、成績も良くないみたいだし」
洋平は一気に気持ちが沈んだ。
「今の学校で真面目にやる気がないなら、学校を替わることも、選択肢のひとつだ」
普段は洋平のことを気にもかけないくせに急に説教じみたことを言う。洋平は父の言葉にげんなりして、ユカリの手を振り払って立ち上がった。
「ちゃんとやってるから放っといてくれよ」
「おい、話は終わってないぞ」
「兄さん、ちょっと待って」
階段を上り自室へ入る。父さんは僕を見ていない。ユカリのために僕に説教じみたことを言っているだけだ。
洋平はベッドに寝転んだ。考えるのもばからしい。洋平は窓の外を見た。きれいに刈られた赤松の木が見える。僕もあんな風に父さんの気紛れで刈られてしまうのさ。どうせ美術学校へ行くユカリが心配で、僕をお目付け役にすることを思いついて言ってみただけなんだ。
来客
「洋平さん、今日は早めに帰宅するようにと、松田画伯からの伝言です」
朝、学校へ行こうとすると田村に声を掛けられた。そういえばこのところ父の姿を見かけない。またアトリエにこもって制作に熱中しているのだろう。ユカリの姿もここ2,3日見ていない。やれやれ、芸術家さま達の熱が入ったようだ。
「午後、お客様が見えるそうです」
「わかった。行ってまいります」
洋平は頷いて玄関へ向かった。師範学校への道すがら、何か焦りに似た落ち着かない感覚に襲われた。先日、美術学校へ行くことをほのめかされたことが、こんなにも自分を動揺させている。父さんが師範学校を望んだんじゃないか。はっきり言われたわけじゃないが、絵の世界へ誘われなかった。それを今更、美術学校へ行けだなんて。
洋平は市電への道を駈けだした。うじうじ考えるのは馬鹿らしい。こうなったら師範学校で上位の成績を修めてやる。洋平は胸の奥をくすぐる美術学校という甘美な言葉を振り払い、停まっていた市電に飛び乗った。
帰宅するとカヤさんから声をかけられて洋平は一階の客間へ顔を出した。部屋のなかには父とユカリ、そして見知らぬ女性がいた。
「山本先生、息子の洋平です」
「洋平、こちらは美術学校の山本先生だ。ユカリの今後について相談するためにお越しいただいた」
洋平は挨拶を交わして端のソファに腰かけた。
「早速ですが、当校の教育方針は」
美術学校の概要や手続きについての会話を聞きながら、洋平は自分が呼ばれた理由がわからず席を立つタイミングを探していた。向かいに座ったユカリを見ると身を乗り出して大人二人の話を聞いている。
「どうだ、洋平。いい学校だと思うか」
「はい、思います」
「ユカリはどうだ。このまま家で描いていても私は構わんが、一度、外で教わったほうがいいかもしれん」
「はい、とても興味があります」
ユカリはそう答えながら洋平のほうを見て少し心配そうな顔をして呟いた。
「でも、その美術学校は、女性だけの学校なのでしょう?」
洋平は驚いて思わず赤面しそうになった。この場に呼ばれたのは、自分も入学を勧められるのではないかと、どこかで期待しながら聞いていた自分が恥ずかしくなった。僕のことじゃないんだ。洋平は逃げだしたくなった。少しでも期待していた自分を罵った。
「私は兄さんと同じ学校へ行けたらいいなと思います」
「それも検討しよう。こちらの学校が気に入ったらこちらに行けばいい。洋平は師範学校を卒業したら教師としてこちらで働くのはどうだ」
洋平は父親を睨んだ。薄目を開けて父親を睨む視線に山本先生はゾクっとさせられた。
洋平は勢いよく立ちあがった。
「どこで働くかはまだ先の話です。今は決められません」
「わかっている。今すぐに、という話じゃない。おい、待て」
「失礼します」
洋平は急ぎ足で客間を出た。
洋平は、学校からまっすぐ家に帰ることはなくなった。道場へも足が向かなかった。カフェで欲しくもない飲物をだらだら飲んだり、活動写真を観て時間をつぶした。
ある日、御茶ノ水の本屋にぶらりと入り適当な本を手に取って立ち読みをしていると、誰かが背後に立つ気配を感じた。
「こんにちは」
驚いて顔を上げると山本先生だった。
「先日はお邪魔しました」
山本先生は髪をきちんと結い上げた袴姿で、いかにも教員らしい身だしなみをしていた。
「あの後、ユカリさんの絵を見せて頂きました。とても素敵な絵でした」
洋平はただ頷いた。
「じゃあ、急ぐので、僕はこれで」
「今度、あなたの絵も見せてくださいね」
「僕の絵?僕は描きません」
「ユカリさんが、あなたの絵は凄いって言っていましたよ」
洋平は口の端をゆがめて笑った。
「妹が兄を誉めるって、真に受けないほうがいいですよ」
手にしていた本を棚に戻して洋平は急いで店を出た。
街をふらつきながら今にも爆発しそうになる気持ちを抑えこんだ。これ以上、振り回されるのはごめんだ。家を出て師範学校の寮に入ろうか。そうだ、留学という手もある。洋平は頭に浮かんでは消える様々な雑念に悶々としながら街をうろついた。
田村
「田村、今度、画材店に行ったら、この絵の具もお願いね」
「はい、紅ですね」
「似た色を何色か買ってきてちょうだい」
「ちょうど今日、松田画伯のお使いで画材店に行くところです」
「じゃあ私も行こうかな。ほかの色も見てみたいし」
「では車を用意しましょうか」
「いらないわ、すぐ近くじゃない。市電に乗って行きましょう」
「わかりました。お支度できたら声をかけてください」
ユカリは街路樹の下で市電を待った。少し前までは田村に手を引かれて外へ出かけたものだが、中学生ともなるともう一人前の女性気取りで、今日は日傘まで手にしている。日射しも強くないし傘は邪魔ではないかと田村は言ったが、お気に入りの傘をユカリは手放そうとしない。こんなところはまだまだ子どもだなと田村は笑う。
身寄りのない田村は、松田画伯の家に住み込みで働くことができて感謝していた。松田画伯は気難しく気分の浮き沈みが大きいが、自分は言われた雑用をこなせばいいだけだし、何より田村は絵を描くことが好きだった。時々、画伯が気まぐれに絵を見てくれることがあり、褒めてもらったり手直しをしてもらったりすると、ますます絵画に夢中になった。お手伝いのカヤさんは料理と子どもたちのことしか眼中になく、自分に無関心なのも却って気楽で暮らしやすかった。
いつか恩返しをする、と田村は決意していた。こんなに良くしてもらって松田画伯に恩返しをしたい。それは芸術で大成することだろうか、それとも身を粉にして働いてこの家に奉仕することだろうか。きっと両方かもしれない。そんな思いを抱きながら田村は松田家の人々に尽くしていた。
市電を待つユカリはきゃしゃな身体をくねらせて通りの向こうを覗き込んでいる。その愛らしい仕草にそぐわない憂いをおびた顔立ち。どこにいても人目を惹いてしまう佇まい。田村は覆をかぶせて周囲の目からユカリを隠してしまいたくなった。なんとしてもユカリを守らなければ。それこそが自分の一番大切な仕事かもしれないと田村は強く思った。