サトウは馬を走らせた。夜の帳が下りて闇は深まっていた。細い三日月の光だけが頼りの険しい山道をペガサスとともに駆け降りた。足元が暗く、何度も藪に突っ込み、大木にぶつかりそうになった。興奮するペガサスに声を掛けて落ち着かせた。「ペガサス、おまえを信じているよ」
山を駆ける
その時、木々のざわめきや獣の気配とは違った何かの物音が耳に入った。微かに響くざわめきがこちらへ向かってやって来る。それは馬の走る音、山をかき分け進む馬のヒズメの音だった。そして遠い微かなその物音はサトウとペガサスを目指して次第に近付いてきた。
「ペガサス」
サトウは馬に頼んだ。
「おまえは村までの道を知っているのだろう。どうか私を村まで運んでおくれ」
ペガサスは前足を上げて大きくいななくと、急に方向転換して藪の奥深くへと突き進んだ。しかし、背後に響いていたヒズメの音がどんどん大きくなり、それはすぐ側まで迫ってきた。
「サトウ」
トーラの声が耳に届いた。
「待てえ~、逃がしはしない」
トーラはノアを駆ってサトウとの距離を縮めてきた。
サトウはペガサスにしがみつき必死で逃げた。トーラの声はすぐ後ろに響いていた。
背後を振り返ると、近付いてきた馬上のトーラの手には荒縄が巻かれていた。
そしてトーラは手を振りかざし、荒縄をサトウめがけて放った。サトウの視界に荒縄の先に括られた鉤が目に入った。瞬時に顔をそむけたが頬のすぐ脇で強い衝撃を感じた。
トーラの縄は確実にサトウの顔を標的としていた。しかしペガサスが体勢をずらしたおかげでサトウは命拾いした。いや、ちがう。荒縄だったせいか?もしあの金色の縄梯子が完成していたら私は確実に縄に取り込まれていたのではないだろうか。サトウは必死に逃げながらも、頭の片隅でふともたげたそんな思いに戦慄した。
その時、ペガサスは宙に舞った。深い峡谷の向こう側へジャンプしたのだ。サトウのすぐ後ろまで迫っていたトーラは手を伸ばしてサトウを捕えようとした。しかしトーラはバランスを崩した。つられてノアが倒れ込み、トーラは大きく悲鳴をあげた。
「ああっ」
トーラとノアは空に浮いたかと思うと、そのまま深い谷底へと落下していった。
「トーラ」
歩みを止めたペガサスの馬上でサトウは見た。地の底へと落ちていくトーラとノアの姿を。助けを求めるように両手を宙に伸ばすトーラの姿が目に焼き付いた。トーラの悲鳴が耳の奥でこだました。
麓の村
馬の蹄の音が遠くから響いている。麓の村で臥せっていたサトウはベッドから起き上がった。まだ幻聴に惑わされているようだ。しかし窓に目を向けると山道を抜けて白い馬が駆けてくるのが見えた。美しい少年が馬を駆っていた。
その少年はサトウの部屋へやってきた。金色の巻き毛は乱れ、バラ色の頬は悲しみで歪んでいた。
「サトウ、具合はどう?」
「それより、トーラは」
ハンスは首を振った。
「谷底から引き上げたけど、手の施しようがなかった」
「そうか、トーラはもう・・」
トーラはどうなったのか、村に着いてからもトーラのことが頭から離れなかった。谷底に落ちていくトーラ。その目はサトウを捉えていた。叫び声は深夜の森にいつまでもこだましていた。寝ても覚めても、トーラの目と声が繰り返しサトウを襲って離さなかった。
ハンスは顔を上げると心配そうにサトウの顔を見つめた。
「顔に、頬に深い傷がついてる」
ハンスは懐から取り出した薬をサトウの頬に塗った。
「傷に良く効く薬草だよ」
「ありがとう、ハンス」
後悔や罪の意識がないまぜになってトーラを失った悲しみがサトウを襲っていた。ハンスが優しく傷の手当てをしてくれたことでサトウの気持ちは少し和らいだ。その一方、サトウはハンスが抱えてきた荷物が気になっていた。ハンスはサトウの視線に気付いて荷物を引き寄せた。そして袋から取り出したのは一幅の額縁だった。
「トーラの形見だ」
サトウは息を呑んだ。それは北棟の廊下に飾られていた絵だった。母親が入っていったあの絵。そして今、絵の中にいるのはトーラだった。サトウは言葉を失った。
「トーラは秘薬を飲んだんだ。そしてこの絵を見つめて」
ハンスは力なく顔をゆがめた。笑おうとしたのかもしれない。
「わかるでしょう、絵の中に入っていった」
サトウはよろめいてベッドに倒れこんだ。
ハンスはもう笑っていなかった。
倒れたサトウを心配する素振りも見せなかった。
「トーラはこの絵のなかで生きることを選んだ」
ハンスは麻袋を差し出した。
「この秘薬と絵をサトウに渡すよう、それがトーラの最後の言葉だった」
絵の中でトーラが笑った。
「トーラはサトウと一緒にヤーパンへ行くのさ」
甲高い笑い声が絵の彼方から響いてくるような気がした。サトウは震える手で耳を塞いだ。