美術学校
フミは校長室のドアをノックした。
「校長先生、お届け物です」
返事がないのでドアを開けて中へ入った。校長先生は不在のことが多い。ほかの施設と兼任してこの学校の校長を務めているからだ。ここは女性の自立を目指して女性のために設立された美術学校だった。
山本先生から頼まれた届け物を机の上に置いた。不在だったら置いて来るよう言われていた。
校長室を出ようとした時、壁の絵が目に入った。
「あれ、この絵」
フミはこの絵が好きではなかった。暗い絵だった。蝋燭の灯りを囲んで何人かがテーブルに座っている絵である。不気味な絵だが校長室へ来るたびに目に入ってしまう。
「人が、増えている・・・?」
絵の中の女性が増えている気がした。ううん、気のせいだ。いつもそんなによく見ていたわけじゃないし。
フミは急いで廊下へ出た。窓から明るい日射しが射しこんでいた。
「さあ、早く教室へ戻ろう。授業が始まっちゃう」
「フミさん、遅いわよ」
メグミとサキが声をかける。
「安岡教授、今日は仕上げたばかりの作品を見せてくれるって」
「楽しみね。フミさん、早くお座りなさいな」
メグミに促されて椅子に腰かけると、安岡教授が教室に入ってきた。後から山本先生が大事そうに額縁を携えている。安岡教授は教壇に立つと生徒達を見回して頷いた。
「みんな揃っているな」
安岡教授に促されて山本先生が額縁をみんなの前に掲げた。
「うわ~」
「すてき」
生徒達が口々に声をあげた。
若い女性を描いた肖像画だった。フミは絵に見入った。顔立ちにあどけなさを残した気品のある女性が描かれていた。姿形の美しさだけでなく絵そのものの輝きに吸い寄せられて、いつまでも見惚れてしまうような肖像画だった。すてきな女性。あっ、でも、どこかで見たことあるような。フミは絵の女性を見ながら首をかしげた。誰かに似ているのかな。この顔、どこかで。
「素晴らしい絵ね」
サキの言葉にメグミが答える。
「女性の意志が、いいえ、作者の意志と女性の意志が一体となって、その思いが絵からあふれ出てくるようだわ」
「今度の院展に出品するのかしら」
「きっとそうよ。安岡教授の自信作よ。見て、教授のあの満足そうな顔」
メグミとサキは小さく笑った。
放課後
生徒達の騒ぐ声が聞こえてきて山本先生は教室へ入った。
「何を騒いでいるのです。もう下校時間ですよ」
「山本先生、この本、見てください」
メグミが差し出した洋書には不気味な挿絵があった。
「図書館でフミさんが見つけてきたのだけど、フミさんったら」
「どうしたの。フミさん、話してみなさい」
山本先生に促されてフミはしぶしぶ話しだした。
「校長室の壁に掛けてある絵が、この絵に似ているなと思って」
「校長室?フミさん、届け物を置いておくよう頼んだことはあるけれど、室内をあれこれ物色することは許しませんよ」
「いえ、物色なんてしていません。絵が目に入ってしまうのです」
フミは思い切った様子でしゃべりだした。
「先生、この間、校長室へ行った時、久しぶりに絵を見たのです。目に入ってしまったのです。そうしたら、絵の中の人が、人が増えていたのです」
「増えていた?」
「その時は気のせいだろうと思って忘れていました。だけど図書館でこの本を見つけて」
本のタイトルは『降霊会』となっていた。挿絵は確かに校長室の絵と似ていた。
「フミさん、この挿絵を見つけて、すごく怖がっちゃって」
「だって降霊会だなんて、校長室の絵も降霊会の絵かもしれないと思うと怖くなってしまって。そういう絵って、呪いとかありそうでしょう」
「落ち着きなさい。校長室の絵は、校長先生がご自分で持ち込まれた絵です。きっと大事になさっている絵なのでしょう」
山本先生はフミの手から洋書を取り上げて言った。
「これ以上校長室のものを何か言うことは私が許しません。この話はもう終わりです。さあ、もう帰りの支度をしなさい」
火事
大正11年の秋、美術学校の校舎に火の手があがった。裁縫室から出火したのだ。
そこは、女性の自立を目指して女性のために設立された美術学校だった。一時、経営が立ち行かなくなり、援助を請われた天祥堂医院が財政面と人材の支援を行った。そのため天祥堂医院のトップが美術学校の校長として就任していた。
サキは一人で教室に残り課題の水彩画を描いていた。焦げくさい臭いに気付いて教室を出た時には、あたり一面、煙だらけだった。サキは目を瞑り両手で耳を塞いだ。こわい、どこへ逃げればいいのか判らない。サキはよろめいて座り込んだ。
その時、どこかで声が聞こえた。
「おーい、誰かいるのか」
「助けて」
サキは叫ぼうとしたが大きな声が出なかった。もうだめだと諦めかけた時、煙の向こうから駆け寄る人影があった。
「きみ、大丈夫か」
若い男性のようだった。
「こっちだ、早く。煙にやられるぞ」
男はサキの肩を抱いて廊下を進んだ。しかしその時、大きな地響きが轟いた。建物のどこかが崩れ落ちたようだった。目の前の廊下にも火の粉や煤が降ってきた。壁や天井全体が黒く燻りだしてミシミシと音を立て始めた。
「あぶない」
男はとっさにサキの顔の前に身体を覆ってサキをかばった。
焼けこげた天井板のようなものがどんどん降ってきて大きな木片が男の左腕を直撃した。
「つぅ、あちっ」
燃え出していた木片は男にひどい火傷を負わせたようだった。
ケガの具合を心配する余裕もなく、サキは男に支えられながら、やっとのことで玄関に辿りついた。
サキはへたりこんだ。
「だめだ、建物からもっと離れないと」
男はサキを抱きかかえるようにして歩き出し、職員や生徒たちが避難しているところまでなんとか辿り着いた。
「サキさん!」
「大丈夫?おケガは?」
職員や女生徒達が駆け寄ってきた。
「煙を吸っているかもしれないから、落ち着いたら救護班のところへ連れて行ってください」
男は職員にそう告げると、燃えている校舎のほうへまた引き返そうとした。救援活動を続けるようだった。
「ありがとうございます」
サキは顔も上げられず小さな声でお礼を言うのがやっとだった。
その時、若者の腕が赤く腫れているのが目に入った。ゆがんだ長方形の赤い跡。キズ?ヤケド?ああそうだ、さっき木片が落ちてきた時、サキをかばって腕にケガをしたのだ。
サキが何か言う前に男はいなくなっていた。
火災を聞きつけた天祥堂医院の教職員、医学生たちが三軒坂の校舎へ駆けつけた。生徒達を校舎から避難させ、動けない者の介助やケガの応急手当をした。
寄宿舎も延焼してしまったので、美術学校の女生徒たちは天祥堂医院に避難して医院の講堂に宿泊することになった。
日頃から天祥堂と美術学校には物理的な交流があった。教室の貸し借りなどで医大生や職員がよく出入りしていた。詳しいことはサキには判らないが、経営も一緒なのかもしれない。天祥堂医院の院長先生は美術学校の校長先生と同じ人らしいが、校長先生が美術学校へ顔を出すことはほとんどなかった。サキは校長先生がどんな人か知らなかった。美術学校の敷地で医大生を見かけることはあったが、暗黙の了解で医学生と美術学校の生徒は隔てられていて接する機会はなかった。
しかし今日の火災では天祥堂医院の人達がすぐに駆けつけて、その迅速かつ献身的な救護のおかげで生徒達は全員無事だった。美術学校の教職員や生徒達は天祥堂医院に深く感謝した。とりわけサキは、もうだめだと思った時に現れた男性はまさに救世主に思えた。ちゃんとお礼を言いたいと思った。どんな姿形の男だったのか覚えていないのが悔やまれた。