サキの病室の窓から百日紅が見えた。赤い花。この一年いろいろなことがあった。三軒坂校舎の火災。逃げ遅れて救助されたこと。菊坂の新しい校舎。そして骨折、入院。幸い2週間ほどで退院できる見込みで9月にはまた美術学校へ通えそうだ。
病室
「具合はいかがですか」
ドアが開いて担当の先生が入ってきた。先生の後にもう一人、白衣を着た長身の男性が立っていた。
「院長先生の回診です」
えっ、あなたは。そこに立っていたのは、御茶ノ水天神で会った紳士だった。
「こんにちは。また会いましたね」
「院長先生、お知り合いでしたか」
担当の先生が驚くと院長先生はサキに微笑んだ。
「あの御札、今も肌身離さず持っていますよ」
「院長先生だったのですか。ということは、美術学校の校長先生?」
「その通り。本業が忙しくて、美術学校のほうにはほとんど顔を出せませんが」
「じゃあの時、落成式って言ってたのは、美術学校の新校舎のこと」
「おかげで無事に建造されました」
「そうだったんですね。でも私ったら、こんな姿で恥ずかしい。車にぶつかっちゃって」
「ちゃんと静養すればすぐよくなりますから。困ったことがあったら担当の先生に相談するのですよ」
そう言うと院長先生は別のベッドへ移動して端の患者から順番に回診を始めた。
退院の前日
サキに面会した帰り、フミは寄宿舎へと急いだ。サキは明日退院なので顔を見るだけのつもりだったのがつい話し込んでしまい、面会時間を過ぎて追い出されてしまった。夕刻でもまだ通りは明るく肌を焦がす暑さに汗が噴き出そうだった。木蔭を選んで歩いていると歩道の向こう側に大きな荷物を抱えて歩いている若者が目に入った。あれはキャンバスじゃないかしら、8号サイズかな。
「あっ」
フミは目を見張った。左手の肘に傷がある。あの人はいつかの人、あの時、怖い目をしていた、あの人。もう関わりたくないと思っていた。
フミは立ち止まって若者の姿を目で追った。時間が経ったせいでフミは少し落ち着いて考えた。あの人は傷のことを人から言われて気を悪くしただけかもしれない。私が無神経に傷のことを言ったのがいけなかったんだ。フミは、あの後、自分で似顔絵を描き直してみて、男性の善良さに触れたような気がしていた。授業中に関係ないデッサンを描いて山本先生に怒られてしまったっけ。フミはあの時のあせった気持ちを思い出して苦笑いした。あの人はサキさんが捜している人に違いない。やっぱりもう一度、話しかけてみようかな。
フミは若者のほうへ行こうとしたが車の往来が途切れず近寄れなかった。反対の歩道から後を追うと、若者は天祥堂医院へと向かい玄関から中へ入っていった。
お医者様かしら、医学生じゃなかったのかしら。
追いかけて事情を話さなくちゃ。サキさんきっと喜んでくれる。しかし天祥堂医院に入るのはためらわれた。面会時間も過ぎているし、受診でもないのにウロウロしていたら不審に思われてしまう。
「行くしかない。サキさんの退院祝いよ」
意を決してフミは足を踏み出した。立派な洋風建築の医院の玄関を入り、受付の人達や廊下の看護師さん達と顔を合わせないようにして、フミはそっと辺りを見回した。あ、いた、奥の階段を上ろうとしている。
フミは急いで廊下の奥まで行き、階段を上った。
廊下の角を曲がると奥のドアが閉まるのが見えた。慌ててドアノブを掴んで声をかけた。
「すみません、どなたかいますか」
退院の日
大正12年9月1日、サキの退院の日だった。
退院の手続きを済ませるとお世話になった方々に挨拶してから廊下へ出た。サキはメグミを待っていた。遅いな、メグミさん。
廊下の待合室に腰かけていると、メグミが玄関から入ってくるのが見えた。
「メグミさん、ここよ」
「サキさん、遅くなってごめんなさい」
「迎えにきてくれてありがとう」
「サキさん、ちょっとこちらへ」
メグミはサキを廊下の隅へ連れていった。
「サキさん、実はね、昨日からフミさんがいないの」
「フミさんが?いないってどういうこと?」
「昨日、寄宿舎へ帰ってこなかったの」
「ええっ、帰ってこない?」
「昨夜、先生方や皆で手分けして寄宿舎のなかを探したのだけれど、見つからなかった」
「フミさん、昨日お見舞いに来たけど」
「ええ、天祥堂医院に行くって私も聞いたわ」
「でも5時すぎに帰った」
「今朝、一応こちらの医院へ連絡はしたみたい。サキさんの病室にいるかもしれないからって」
「5時すぎに別れたあとは会っていないよ」
「わかってる。大事にならないよう内々に捜しているのよ。若い女性だから変な噂がたつのは良くないからって」
「どうしよう。昨日、てっきり寄宿舎に帰ったと思ってた。寄り道するなんて言ってなかったし」
「大丈夫。きっとじきに見つかるわ」
玄関へ向かう足を止めてメグミが言った。
「サキさん、私、心配だから、医院の中を捜してみる」
「医院の人達に任せたら?かえって邪魔になるよ」
「だけど、このまま帰れないわ。ここまで来ているのに捜さないなんて嫌よ」
「わかった。じゃあ私も行く。一緒に捜しましょう」
「サキさんは折角の退院だから、どうぞ先に帰って」
「迎えに来てくれたのに、先に帰ってはないでしょう」
「そうだった、ごめんなさい」
二人は1階の診察室や検査室の周りを歩いてみた。廊下は診察待ちの人であふれかえっていた。
「診察室は入る訳にはいかないわ」
「そうよね。さて、どうしようか。2階へ行ってみる?」
「2階はお医者さんや看護婦さんの場所よ。医局とか教授室とかがあって、普段、患者は行かないわ」
「ふーん。私、ちょっと行ってみる」
「おやめなさいよ。メグミさんが歩いていたら目立つんだから」
「サキさんはここで待っていて。あなたとはぐれて探していたことにするから」
そう言うとメグミはすたすたと階段を上って行ってしまった。
サキは仕方なく廊下の椅子に腰かけた。
昨日、看護師さんに面会時間が過ぎていると言われて、フミはあわてて帰って行った。
5時すぎていたけれど、外はまだ明るくて、まだ暑かった。寄宿舎まで歩いて10分もかからない。大通りを通れば危険な場所はないはず。一体なぜ寄宿舎へ戻っていないのだろう。
サキは結論の出ないまま同じことを考え続けていた。
「あ、もうこんな時間」
いつの間にか時間が経っていた。メグミさん、どこまで行ったんだろ。
サキは立ち上がって、階段の下から2階の様子を窺った。
「行ってみるしかないわね」
サキは階段を上った。
2階の廊下には誰もいなかった。午前の診察で1階は混み合っているが、2階は人気もなく静かだった。
廊下に沿って歩いてみる。誰かに見つかったらどうしよう。サキは不安になった。メグミさん、何処にいるの。
「何をしているのです」
「ひっ」
背後から声を掛けられてサキは驚いた。
「ごめんなさい・・」
顔を上げると山本先生が立っていた。
ああ良かった。知らない人だったら大変だった。
「こんなところで何をしているのです」
「あの、メグミさんが、2階へ行ったきり戻ってこなくて」
「2階へ?用もなく勝手に2階へ行ってはいけませんよ」
「すみません。あの、その、はぐれてしまって」
「こんなところにいたら不審者と間違われてしまいます」
「はい、すみません」
「今日は退院だと聞いています。あなたは寄宿舎へもどって休みなさい」
「でも、メグミさんが戻って来ないし、それに」
「私が探してみます」
「山本先生。あの、フミさんがいなくなったって」
「フミさんのことも大人にまかせて、さあ、お帰りなさい」
「はい、わかりました」
サキは踵を返し、階段へ向かった。振り返ると、山本先生は2階の奥のほうに向かって廊下を急いでいた。