ユカリがいなくなって1週間が経とうとしていた。何の手掛かりもなかった。洋平は憔悴していった。
カヤさん
「洋平ぼっちゃま、田村は遠出をしているのですか」
カヤさんが心配そうな顔で近付いてきた。
「食卓に昨日の晩ご飯がそのまま残っていたんですよ。今朝の食事も手をつけてなくて」
カヤさんは、近所の家から食事を作りにやってきて片付けを終えたら家に帰る、という毎日だった。以前は雑用もこなしていたが、田村が住み込むようになってからは食事の用を終えるとすぐ自宅へ戻っていたようだ。田村が雑用を引き受けるようになったためだが、どうやら田村と話したくない、そんな感じが見受けられた。洋平は、カヤさんにも田村にも無関心だったが、カヤさんが父親に何か頼まれた時に、田村に近付きたくないようなことを言っているのを耳にしたことがある。洋平も田村をそれほど慕っているわけではなかったが、ユカリの面倒をよくみてくれるので田村がいるのは助かっていた。
「食事がいらない時は言ってもらえないでしょうか。用意したままだと傷んで虫も飛んできますし」
「わかった。だけど僕も何も聞いてないんだ」
「昨日からずっといないみたいですよ」
「じゃあ、あとで離れに行って様子を見て来るよ」
「そうしてくださいな。私は離れには行きたくないですから」
離れ
田村は離れに住んでいた。もともとは松田画伯のアトリエとして建てられたが、田村が住み込むようになってからは、家族は自然と足が遠のき、父もユカリも母屋で制作するようになっていた。
そういえばユカリがまだ小さい頃、離れで制作している父の横に母もいて家族4人でよく一緒にいたっけ。そんな日々もあったんだな。洋平は昔を思い出しながら、ユカリの不在にますます気が急いてきた。父も母ももういない。だがユカリ、おまえのことはなんとしても捜し出す。どこかに捕われているなら絶対に助け出してやるから。
洋平は離れの玄関の扉を開けた。何年ぶりかで足を踏み入れた。
「田村、いるのか」
呼びかけながらアトリエへの扉を開けた。
「えっ、ユカリ・・?」
ユカリの顔がいきなり現れて洋平は驚いた。描きかけのキャンバスにユカリが描かれていた。
しかしユカリの絵は一枚だけではなかった。壁沿いに何枚も並べられていた。洋平の目はそれを順に追っていった。そして洋平は呆然と立ち尽くした。
ユカリが校長室と書かれた扉を開けて逃げ込む。
校長室の奥へ逃げるユカリの必死の表情。
誰かの腕がユカリを捉えようと迫っている。
恐怖に歪むユカリの顔。
壁に掛けられた絵に向かって両手を伸ばすユカリ。
壁の絵の中に立っているユカリの後姿。
振り向いてこちらを一瞥するユカリ。
テーブルを回って空いている椅子に近付くユカリ。
椅子に座って艶然と微笑むユカリ。
「どういうことだ。この絵はなんなんだ」
何枚もの絵を何度も食い入るように見た。やがて洋平は理解した。これは田村が描いた絵、そしてこれは田村が体験した出来事。
「こんなことが、本当に、本当に、あったのだろうか」
洋平は自問自答した。
「では、校長室にあった絵は、あの絵の中に描かれていたユカリは、本物のユカリだったのか?」
洋平の頭は混乱した。
その時、洋平は思い出した。父が亡くなり佐藤先生の往診を受けた時のこと。ユカリが佐藤先生から聞いた話。ドイツへ留学した時の話をユカリから聞かされた。遠い異国での出来事をお伽噺でも聞くように夢うつつで聞いたあの日。痩せこけたユカリの目が異様に光っていたのを思い出す。
絵の中の人物と目が合うと絵の中に引きずり込まれる。
洋平は物語の意味を理解すると同時に怒りが爆発した。
「田村、おまえがやったんだな。おまえがユカリを追い込んだ」
洋平は目の前のキャンバスをなぎ倒して離れを飛び出した。
美術学校
美術学校で洋平は警備員につかまった。
「つまみ出せ」
安岡教授は興奮して洋平に襲い掛からんばかりだった。
「松田画伯の息子だから大目に見てやってたが、こいつは常習犯だ」
「てめえこそ変質者じゃないか」
「て、てめえだと。無礼な。許せん」
安岡教授は唇をわなわなと震わせて憤慨した。
「二度と私の前に顔を見せるな。今度会ったら牢屋にぶちこんでやる」
激怒する安岡教授を山本先生がなだめた。山本先生は、ほかの先生や職員にも、自分にまかせてほしいと頼み込んだ。洋平が松田画伯の息子だったこともあり、なんとかその場は収まって教職員たちは持ち場へ戻っていった。
「松田さん。学校へ忍び込むなんて、なんてことしてくれたんです」
「山本先生、校長室の絵を見てください。そこにユカリがいるんです」
「松田さん、あなたは不審者と思われているのですよ」
「校長室の絵を持ってきてくれ。本当にユカリがいるんだ」
「これ以上騒ぐと周りは黙っていません。警察へ行くことはあなたも本意ではないでしょう」
「お願いだ。ユカリを助けたいんだ」
取り乱す洋平に山本先生はきっぱりと言った。
「とにかく今日は帰りなさい。学校の中へは入れません。たとえ、あの絵に何か問題があったとしても、学校の物を無断で持ち出すことはできません」
「だったらあの絵を買う」
洋平は山本先生をにらんだ。
「いくらでもいい。僕があの絵を買う」
山本先生にとって、それは譲歩できる案に思えた。これ以上、洋平が学校をうろつくことは何としても避けたかった。
「わかりました。校長先生にお伺いしてみます」
「ありがとう、山本先生」
松田家
洋平は田村を捜さなかった。カヤさんも何も言わず、田村の分の食事は作らなくなっていた。
洋平は山本先生からの返事を待つしかなかった。
それから幾日も経たない晴れた日だった。カヤさんが洋平の部屋に飛び込んできた。
「坊ちゃま、学校が、美術学校が、火事だって」
「なんだって」
洋平はすぐに部屋を飛び出して階段を下りた。カヤさんが後を追いかけながら話し続ける。
「今、仕出し屋さんが、湯島のほうから来るんですけど、ちょうど学校のそばを通って、そしたら」
カヤさんの説明を背中に聞きながら、洋平はすぐに表へ出て走り出した。
美術学校
通りは火事の影響からか車も人もごった返していた。
息を切らして学校の前に着くと、生徒達が押し出されるようにしてどんどん門の外へと出てきていた。学校に面した大通りでは野次馬が溢れかえり、近辺は身動きとれないほどの人混みとなっていた。
校舎から煙が上がっていたが火の手は見えなかった。洋平は人混みを縫って敷地へ入り込み、玄関から校舎のなかへ入った。
校長室のある奥の二階はまだ火の気配はないようだった。しかし校舎の中は煙が充満していて室温も高くなっており、いつ炎が噴き出してもおかしくないような状況だった。洋平は急いで校長室を目指そうとした。しかし右手の奥の廊下で何か動くものが目に入った。誰かがうずくまっている。女生徒のようだった。
「きみ、大丈夫か」
女生徒はギュッと目を瞑り両手で耳を押さえていた。洋平は女生徒を助け起こした。
「こっちだ、早く。煙にやられるぞ」
俯いたままの女生徒を抱きかかえるようにして玄関へ誘導しようとした。
しかしその時、轟音が響き、建物は大きく振動した。頭の上で天井がミシミシと音を立てて崩れ始めた。
「あぶない」
洋平は女生徒に覆いかぶさり女生徒を守ろうとした。
焼けこげた天井板のようなものがどんどん降ってきて大きな木片が洋平の左腕を直撃した。
「つぅ、あちっ」
燃え出していた木片は洋平にひどい火傷を負わせたようだった。
倒れ込む女生徒を支えてやっとのことで玄関に辿りつき、敷地の外に設けられた救護所に女生徒を預けた。
洋平はすぐに取って返し建物の玄関へ向かった。
火が廻る前に校長室へ行きたかった。
しかし、洋平が再び建物の前まで来たときは、すでに一階の玄関にも火の手が上がっていた。
洋平の目の前で、轟音とともに校舎が崩れ落ちた。
崩れ落ちる校舎と、さらに大きく燃えさかる炎を見て、洋平は、校長室へはもう行けないことを悟った。ユカリの絵を救い出すことが叶わないことを悟った。
洋平は膝から地面に落ちて慟哭した。