物語だんだん

だんだん物語となるべし段の談

離れに住む弟子

画像 洋平とユカリ

ユカリがいなくなって1週間が経とうとしていた。何の手掛かりもなかった。洋平は憔悴していった。

カヤさん

「洋平ぼっちゃま、田村は遠出をしているのですか」

 カヤさんが心配そうな顔で近付いてきた。

「食卓に昨日の晩ご飯がそのまま残っていたんですよ。今朝の食事も手をつけてなくて」

 カヤさんは、近所の家から食事を作りにやってきて片付けを終えたら家に帰る、という毎日だった。以前は雑用もこなしていたが、田村が住み込むようになってからは食事の用を終えるとすぐ自宅へ戻っていたようだ。田村が雑用を引き受けるようになったためだが、どうやら田村と話したくない、そんな感じが見受けられた。洋平は、カヤさんにも田村にも無関心だったが、カヤさんが父親に何か頼まれた時に、田村に近付きたくないようなことを言っているのを耳にしたことがある。洋平も田村をそれほど慕っているわけではなかったが、ユカリの面倒をよくみてくれるので田村がいるのは助かっていた。

「食事がいらない時は言ってもらえないでしょうか。用意したままだと傷んで虫も飛んできますし」

「わかった。だけど僕も何も聞いてないんだ」

「昨日からずっといないみたいですよ」

「じゃあ、あとで離れに行って様子を見て来るよ」

「そうしてくださいな。私は離れには行きたくないですから」

離れ

 田村は離れに住んでいた。もともとは松田画伯のアトリエとして建てられたが、田村が住み込むようになってからは、家族は自然と足が遠のき、父もユカリも母屋で制作するようになっていた。

 そういえばユカリがまだ小さい頃、離れで制作している父の横に母もいて家族4人でよく一緒にいたっけ。そんな日々もあったんだな。洋平は昔を思い出しながら、ユカリの不在にますます気が急いてきた。父も母ももういない。だがユカリ、おまえのことはなんとしても捜し出す。どこかに捕われているなら絶対に助け出してやるから。

 

 洋平は離れの玄関の扉を開けた。何年ぶりかで足を踏み入れた。

「田村、いるのか」

 呼びかけながらアトリエへの扉を開けた。

「えっ、ユカリ・・?」

 ユカリの顔がいきなり現れて洋平は驚いた。描きかけのキャンバスにユカリが描かれていた。

 しかしユカリの絵は一枚だけではなかった。壁沿いに何枚も並べられていた。洋平の目はそれを順に追っていった。そして洋平は呆然と立ち尽くした。

 

ユカリが校長室と書かれた扉を開けて逃げ込む。

校長室の奥へ逃げるユカリの必死の表情。

誰かの腕がユカリを捉えようと迫っている。

恐怖に歪むユカリの顔。

壁に掛けられた絵に向かって両手を伸ばすユカリ。

壁の絵の中に立っているユカリの後姿。

振り向いてこちらを一瞥するユカリ。

テーブルを回って空いている椅子に近付くユカリ。

椅子に座って艶然と微笑むユカリ。

 

「どういうことだ。この絵はなんなんだ」

 何枚もの絵を何度も食い入るように見た。やがて洋平は理解した。これは田村が描いた絵、そしてこれは田村が体験した出来事。

「こんなことが、本当に、本当に、あったのだろうか」

 洋平は自問自答した。

「では、校長室にあった絵は、あの絵の中に描かれていたユカリは、本物のユカリだったのか?」

 洋平の頭は混乱した。

 その時、洋平は思い出した。父が亡くなり佐藤先生の往診を受けた時のこと。ユカリが佐藤先生から聞いた話。ドイツへ留学した時の話をユカリから聞かされた。遠い異国での出来事をお伽噺でも聞くように夢うつつで聞いたあの日。痩せこけたユカリの目が異様に光っていたのを思い出す。

 

 絵の中の人物と目が合うと絵の中に引きずり込まれる。

 

 洋平は物語の意味を理解すると同時に怒りが爆発した。

「田村、おまえがやったんだな。おまえがユカリを追い込んだ」

 洋平は目の前のキャンバスをなぎ倒して離れを飛び出した。

美術学校

 美術学校で洋平は警備員につかまった。

「つまみ出せ」

 安岡教授は興奮して洋平に襲い掛からんばかりだった。

「松田画伯の息子だから大目に見てやってたが、こいつは常習犯だ」

「てめえこそ変質者じゃないか」

「て、てめえだと。無礼な。許せん」

 安岡教授は唇をわなわなと震わせて憤慨した。

「二度と私の前に顔を見せるな。今度会ったら牢屋にぶちこんでやる」

 激怒する安岡教授を山本先生がなだめた。山本先生は、ほかの先生や職員にも、自分にまかせてほしいと頼み込んだ。洋平が松田画伯の息子だったこともあり、なんとかその場は収まって教職員たちは持ち場へ戻っていった。

 

「松田さん。学校へ忍び込むなんて、なんてことしてくれたんです」

「山本先生、校長室の絵を見てください。そこにユカリがいるんです」

「松田さん、あなたは不審者と思われているのですよ」

「校長室の絵を持ってきてくれ。本当にユカリがいるんだ」

「これ以上騒ぐと周りは黙っていません。警察へ行くことはあなたも本意ではないでしょう」

「お願いだ。ユカリを助けたいんだ」

 取り乱す洋平に山本先生はきっぱりと言った。

「とにかく今日は帰りなさい。学校の中へは入れません。たとえ、あの絵に何か問題があったとしても、学校の物を無断で持ち出すことはできません」

「だったらあの絵を買う」

 洋平は山本先生をにらんだ。

「いくらでもいい。僕があの絵を買う」

 山本先生にとって、それは譲歩できる案に思えた。これ以上、洋平が学校をうろつくことは何としても避けたかった。

「わかりました。校長先生にお伺いしてみます」

「ありがとう、山本先生」

松田家

 洋平は田村を捜さなかった。カヤさんも何も言わず、田村の分の食事は作らなくなっていた。

 洋平は山本先生からの返事を待つしかなかった。

 

 それから幾日も経たない晴れた日だった。カヤさんが洋平の部屋に飛び込んできた。

「坊ちゃま、学校が、美術学校が、火事だって」

「なんだって」

 洋平はすぐに部屋を飛び出して階段を下りた。カヤさんが後を追いかけながら話し続ける。

「今、仕出し屋さんが、湯島のほうから来るんですけど、ちょうど学校のそばを通って、そしたら」

 カヤさんの説明を背中に聞きながら、洋平はすぐに表へ出て走り出した。

画像 マンガ カヤさんが駆け込んでくる

美術学校

 通りは火事の影響からか車も人もごった返していた。

 息を切らして学校の前に着くと、生徒達が押し出されるようにしてどんどん門の外へと出てきていた。学校に面した大通りでは野次馬が溢れかえり、近辺は身動きとれないほどの人混みとなっていた。

 校舎から煙が上がっていたが火の手は見えなかった。洋平は人混みを縫って敷地へ入り込み、玄関から校舎のなかへ入った。

 校長室のある奥の二階はまだ火の気配はないようだった。しかし校舎の中は煙が充満していて室温も高くなっており、いつ炎が噴き出してもおかしくないような状況だった。洋平は急いで校長室を目指そうとした。しかし右手の奥の廊下で何か動くものが目に入った。誰かがうずくまっている。女生徒のようだった。

「きみ、大丈夫か」

 女生徒はギュッと目を瞑り両手で耳を押さえていた。洋平は女生徒を助け起こした。

「こっちだ、早く。煙にやられるぞ」

 俯いたままの女生徒を抱きかかえるようにして玄関へ誘導しようとした。

 しかしその時、轟音が響き、建物は大きく振動した。頭の上で天井がミシミシと音を立てて崩れ始めた。

「あぶない」

 洋平は女生徒に覆いかぶさり女生徒を守ろうとした。

 焼けこげた天井板のようなものがどんどん降ってきて大きな木片が洋平の左腕を直撃した。

「つぅ、あちっ」

 燃え出していた木片は洋平にひどい火傷を負わせたようだった。

 倒れ込む女生徒を支えてやっとのことで玄関に辿りつき、敷地の外に設けられた救護所に女生徒を預けた。

 洋平はすぐに取って返し建物の玄関へ向かった。

 火が廻る前に校長室へ行きたかった。

 しかし、洋平が再び建物の前まで来たときは、すでに一階の玄関にも火の手が上がっていた。

 洋平の目の前で、轟音とともに校舎が崩れ落ちた。

 崩れ落ちる校舎と、さらに大きく燃えさかる炎を見て、洋平は、校長室へはもう行けないことを悟った。ユカリの絵を救い出すことが叶わないことを悟った。

 洋平は膝から地面に落ちて慟哭した。

行方不明の妹

画像 洋平とユカリ

洋平はお手伝いのカヤさんからユカリの不在を知らされた。ユカリを心配するとともに家のことに無関心だった自分を悔いた。

安岡教授 

 ユカリが帰宅しなかった翌朝、洋平は美術学校へ赴いた。

 安岡教授への面会を申し込むと教授室へ通された。洋平は、モデルの仕事のあとユカリがいなくなったことを伝えた。だが吉岡教授は不機嫌そうに自分は関係ないと言い放った。夕刻にモデルの仕事を終えてユカリは部屋を出た、それからのことは自分は知らない、自分はユカリが帰ったあとも制作に没頭していたのだ、と言いつのった。

「松田画伯のお嬢さんだから安心していたのに、帰ってないとは不謹慎な」

「ユカリが家に帰らないなんて初めてです」

「ゴタゴタは困るよ。まだ描きかけなのに途中でいなくなったりしたら、私のこの大作はどうしてくれるんだ」

 ユカリの心配をするわけでも自分の制作に支障が出たら困ると言い出す安岡教授に、洋平は思わず教授の胸倉をつかんで壁に追い詰めた。

 洋平の剣幕に一瞬ひるんだ安岡教授だったが、大声で虚勢を張った。

「出ていけ。今すぐ出ていかないなら警察を呼ぶぞ」

 洋平は薄目を開けてにらんだ。

「こっちこそあんたを警察につきだしてやる」

「私を、この私を、あんた、だと。私を一体誰だと思っておる」

「あんたに構っているヒマはないんだ」

 洋平は部屋を飛び出した。背後で灰皿かなにかが飛んで壁に当たる音がした。安岡教授の喚き声が廊下にまで響いていた。

駐在所

 洋平は美術学校を出て駐在所へ向かった。年配の警官が出てきて対応してくれた。いかにも近隣の相談ごとに長けているという感じの話しやすい警官だった。早速行方不明の手配をしてくれるという。ほかの駐在所にも連絡してすぐに捜索を開始するとのことだった。

 

 駐在所からの連絡を待つ以外、洋平にできることはなかった。近所やユカリが行きそうな場所を捜しまわったが何の手掛かりもなかった。

 

「坊ちゃま。ユカリ様は見つかりましたか」

 帰宅するとカヤさんが泣きそうな顔で近付いてきた。

「どうかユカリ様を捜してくださいまし」

 洋平の後を付いてまわり同じ訴えを繰り返す。

「わかってる。少し静かにしてくれないか」

 

画像 マンガ 洋平に泣きつくカヤさん

 

 ユカリはやはり美術学校のどこかにいるのではないか。あの安岡教授の激高ぶりは却ってあやしい。ユカリをどこかに隠しているのではないか。あるいは怪我とか急病とか何かがあって、どこかの部屋で保護されているのかもしれない。

 

 安岡教授と喧嘩になってしまい、これ以上美術学校へ行くのは気が重かったが、洋平は山本先生に相談してみようと思った。この家にも来たことがある人だ。ユカリをモデルにと誘ったのも山本先生だ。

美術学校

 山本先生は洋平の訪問を歓迎した。しかしユカリが行方不明だという話を聞くと表情を曇らせた。山本先生は教授室へ行ってくれたが、安岡教授は、知らない、自分は関係ない、の一点張りだったそうで、やはりユカリの行方は掴めなかった。

 

「学校の中を調べさせてください」

「それは認められません」

「ただ建物の中を見て歩くだけです。じゃないと僕は納得できない」

「そもそもここは女学校です。男の人は原則立ち入り禁止です」

「人がいなくなったんですよ。原則もなにも、すぐに捜さないと」

「学校が関係あるとは限りません」

「だから関係ないのかどうか調べさせてください」

「洋平さん、気持ちはわかりますが、どうか騒ぎ立てず、私に任せてください。ほかの先生にも訊いてみます。学校のなかも何か変わったもの、不審なものがないか私がよく調べてみます」

 山本先生はそう約束して渋る洋平を説得して帰らせた。

 

 しかし洋平は諦めなかった。山本先生の姿が校舎の中に消えると、すぐに学校へ舞い戻った。

 

 校舎の周りを歩いてみると裏にも出入口があるのがわかったが、そこは施錠されていて、何年も使われていないようだった。仕方なく正面玄関へ戻り、用務員や職員の目を盗んで学校へ侵入した。

 辺りの様子を窺い、誰もいないのを確認しながら廊下を歩いた。

 廊下に沿っていくつかの部屋を探索しながら通路の奥まで来ると階段があった。洋平は階段を上り二階へと足を踏み入れた。

 

 二階の奥には立派な扉の部屋があり、案内札には校長室と書かれていた。

 洋平は扉に触ってみた。鍵はかかっていなかった。

 洋平はすぐに校長室の扉を開けた。何のためらいもないことが自分でも不思議だった。

 足を踏み入れるとそこは別世界のように明るい大きな部屋だった。ガラス張りの窓が壁いっぱいに設けられ、高窓から日が射しこんで部屋全体が輝いていた。窓の外には生い茂った樹木と青空が広がっていた。

 

 洋平は窓へ近付こうとしてふと足を止めた。まるで何かに呼ばれるかのように壁のほうを見た。

 そこには一枚の絵が掛けられていた。洋平は息を止めた。

 

 絵の中にユカリがいた。

 絵の向こうから洋平を見つめていた。

「ユカリ、まるで生きているみたいだ」

 洋平はユカリの姿に見入った。

 絵の中のユカリは洋平の視線を受け止めて微かに口元をゆるませた気がした。洋平の来訪を喜んでいるかのようだった。

 洋平は絵の前で立ち尽くした。

 

 どこかで何か物音がして洋平は我に返った。

 廊下の様子を窺いながらそっと校長室を出て校舎を後にした。

 

 翌日、駐在所の警官が家に来て捜索状況を教えてくれた。

 警察は美術学校へ赴き職員や先生に質問をした、敷地内をくまなく捜索したがこれといって異常はなかった、ユカリさんの行方はまだ何の手掛かりもない、引き続き捜索する、とのことだった。

 

 洋平はそれから毎日のように山本先生を訪ねた。山本先生の話はいつも同じだった。ユカリさんの姿は見かけない、学校に何も異変はない。そしてだんだんと不在を告げられたり用事があるとかで取り次いでもらえなくなっていった。

田村 松田画伯の弟子

 田村は美術学校へ忍び込んだ。

 校長室へ侵入し壁に掛けられた絵を取り外しにかかった。しかし絵は壁に硬く固定されていて何故か外れなかった。

 取り外せない額縁にいらついて田村は手を止めた。田村の目に絵の中の光景が映った。

 絵には異国の女性も描かれていた。

 その異国の女性は緑のガラス玉のような目で田村を見つめていた。

 田村はその美しいガラス玉から目をそらすことができなくなった。

 そして田村はその目に引き込まれるかように、どこか別の知らない世界へと瞬く間に吸い寄せられていった。

 抵抗する間もなく声を上げることさえ出来ず一瞬の出来事だった。

 

 田村は暗闇のなかにいた。灯りがなかった。

「俺は、どうなったんだ。ここは、どこだ」

 ユカリのように絵の中に入ってしまったのだろうか。田村は暗闇のなかを手さぐりで進んだ。何も見えなかった。何もなかった。

「ここは何処だ。ここは、絵の中なのか。おい、誰かいるのか。いたら返事をしてくれ」

 どこからも何の音も聞こえてこなかった。

「ユカリ、どこにいるんだ」

 ユカリの姿は見えなかった。あたりを照らす燭台もなかった。

 誰もいない何もない暗闇のなかで田村は絶望の怒声を上げ続けた。

校門で待つ男

画像 洋平の妹ユカリ

安岡教授の絵のモデルとなったユカリは、その日も美術学校の教授室でモデルの仕事をした。

ユカリ 松田画伯の息女

 夕刻になり私は安岡教授の部屋を出ました。

 作品の完成が近いせいか安岡教授はとても機嫌よく私を送り出しました。安岡教授には悪い噂もありましたが私は気になりませんでした。日本画壇に属していた父と交流がありましたし、幼いころから作品に執りかかると周りが見えなくなる父を見て育ってきたので、安岡教授の偏屈さは当たり前のことと思えました。

 学校の玄関まで来て私は憂鬱になりました。送り迎えをしてくれる田村が日に日にしつこくなってきたからです。田村は校門の外で待っていました。安岡教授のご用で遅くなるから今日は先に帰るようにと言い渡しましたが、田村は納得しませんでした。遅くなるなら余計心配だ、それに今日こそ返事をきかせてほしい、と言いました。

 田村は私に求婚していたのです。何度も断りましたが田村はあきらめませんでした。松田画伯から自分の才能は認められていた、ゆくゆくはユカリさんとの結婚をほのめかしていた、と言って譲りません。兄が知ったら怒って田村を追い出してしまうだろう、そう思うと兄に相談もできませんでした。こんな田村でも居なくなったら我が家は立ち行かなくなるのです。

 校門から立ち去ろうとしない田村に、私はきっぱりと言いました。あなたとは結婚しません。この先もその考えが変わることはありません。

 田村は感情を高ぶらせ嘆いたり私をなじったりしました。そして私の腕を掴み、強引に引きずろうとしました。

 

画像 マンガ ユカリに迫る田村

 

 私は怖くなり、田村の手をふりほどいて走って美術学校の中へ戻りました。ところが田村は校舎の玄関を開けて美術学校の中に入ってきたのです。私は急いで階段を上り2階へ逃げました。

 田村が追いかけてくるのが見えたので廊下の奥まで走り校長室の表札がある部屋へ逃げ込みました。校長先生、助けてください、そう叫ぼうとしましたが、部屋には誰もいませんでした。広い室内に人の気配はありません。私はドアへ戻り鍵をかけようとしましたが、田村はすでにドアのところに辿りついたらしく、ドアを閉めようとした私の力は簡単に押し戻されてしまいました。田村はやすやすと校長室の中へ入ってきました。

 女子の学校へ入ってくるなんて許されることじゃない。誰かに見つかったら牢屋行きになる。私の説得に耳も貸さず、田村は理性の箍が外れてしまったようで、逃げる私を部屋の隅へと追い詰めました。逃げ道は塞がれていました。高窓から西日が射しこんでいました。狂気に満ちた目で近付いてくる田村を見て、捕まったら終わりだ、なんとしても逃げなければと私は焦りました。窓だ、あの高窓から逃げよう、咄嗟にそう考えた私は、側にあった椅子を窓際へ寄せて上りました。田村の腕と顔が迫ってくるのが見えました。

 そのあとのことはよくわかりません。椅子から落ちたのか、田村に引きずられたのか、それとも高窓にぶつかったのか。私の意識は遠のきました。

 その時、視界の片隅に、壁に掛かった絵が映りました。助けて。絵の中に描かれている女性と目が合いました。その目を一瞬凝視して叫びました、助けて。

 

 目が覚めた時、私は暗闇の中にいました。暗闇のなかで小さな灯りを見つけました。丸いテーブルの上で蝋燭が火を灯していました。私はテーブルに近付いてそっと席につきました。

 その時からずっと、私は蝋燭を囲んでテーブルに座っているのです。

田村 松田画伯の弟子

 ユカリの腕を掴もうとした田村は、目の前でユカリの姿が見えなくなり、右手はむなしく宙を掴んで漂った。

「ユカリさん」

 田村は部屋の中を見回した。広い校長室だったが死角はなかった。

「一体どこへ」

 田村は部屋の中をうろつきまわった。田村は混乱した。自分の頭がおかしくなったのか、それともこれは全部夢なのか。田村は窓に近付いた。窓の鍵は全部施錠されていた。窓を一つ開けてみた。夜の帳に覆われて鬱蒼と茂った木々の影がそこかしこに見えるだけだった。振り向いて室内を見た田村の目が壁に釘づけとなった。壁には一枚の絵が飾られていた。

「う、うそだ」

 田村は狼狽し後ずさった。

 田村が凝視する目の先には一枚の絵があった。

 その絵の中にユカリがいた。ユカリは振り返り田村を一瞥するとテーブルを回って向こうの椅子に腰かけた。

 

「先生、こちらで物音が」

 廊下から声が響いた。校長室の扉の前で足音が止まり、今にも扉が開かれて誰かが入ってきそうだった。

 田村は開けた窓を閉めて逃げ道を捜した。奥に物置のような部屋が続いているのがわかり、そちらの部屋へ逃げ込んだ。その部屋の扉からそっと廊下へ出て田村は美術学校を後にした。

松田家

 翌日、洋平にユカリの所在を訊かれた時、田村はうまくはぐらかした。

「美術学校でまだ用があるから先に帰るように、と言われました」

「まさか、そう言われて、ユカリを置いて、一人で先に帰って来たのか?」

「はい。私は家の用事がありましたので」

「その後、ユカリはいつごろ帰ってきたんだ」

「わかりません」

「わからないって、なんのための付き添いだ」

「このごろユカリさんは、あまり何か訊いたりすると嫌がりますので」

 田村は申し訳なさそうな表情を浮かべて答えた。

「必要な時以外はそばに寄らないようにしているんです」

「それでも帰宅の確認ぐらい、するのが当たり前だろう」

 洋平は感情的になり声を荒げたが、すぐに黙った。

 自分こそ周りの物事に無関心であり、ユカリの不在もカヤさんに言われるまで気付かなかった。ユカリのことはもちろん常に気にかけていたが、一言も言葉を交わさない日がしょっちゅうだった。

「すみませんでした。今後は気をつけます」

 田村が殊勝な様子で謝ると、洋平は不満そうな表情を見せたが、それ以上何か言ってくることはなかった。

 あのインテリぶった半人前の兄にユカリを任せるわけにはいかない。松田画伯が亡くなった後、田村はいっそうその思いを強くして、ユカリを守るのは自分しかいないと心に決めていた。

 昨夕の件を洋平に話すつもりはなかった。俺が自分でもう一度あの美術学校へ忍び込み、あの絵を持って帰ろう。そしてユカリを絵の中から出してあげるのだ。それが出来るのは自分しかいない。ユカリ、俺がそこから助けてあげる。おまえを救ってやるからな。なに、絵から出て来なくったっていいさ。俺の側にずっと置いておく。俺はいつでもいつまでもユカリの姿を思う存分眺め尽くすのさ。その妄想は田村をいたく愉快にさせた。なにがお嬢様、お坊ちゃまだ、しょせん親が死んだら何もできない世間知らずだ。これからは俺の思うようにこの家を取り仕切ってやる。田村は洋平を気遣うそぶりを見せながら、心の中で下卑た忍び笑いを繰り返した。

美術学校のモデル

画像 洋平とユカリと山本先生

扉がノックされ、一人の若者が入ってきた。松田画伯の息子の洋平だった。

洋平 松田画伯の息子

「山本先生、ご無沙汰しております」

「松田さん、久しぶりね」

「先生、昨日、妹は帰ってきませんでした」

「なんですって」

「安岡教授のところへ行くと言ったきり帰ってこなかったのです」

「安岡教授には訊いてみた?」

「モデルを終えて夕方には帰った、それ以上は知らない、と」

 

 安岡教授がモデルを探している時、ユカリを紹介したのは山本先生だった。

「警察へは?もう知らせましたか?」

「駐在所へ連絡しました。近所を捜索してもらっていますが、何も進展ありません」

「どうしましょう、それは心配だわ」

 山本先生は顔を曇らせた。

「先生、安岡教授に取り次いでください。帰ったあとは知らないと言って、もう会ってくれないのです」

「今、教授室にいるはずですから、私が一人で話を聞いてみます。ここで待っていてください」

 

 しばらくして戻って来た山本先生の話はやはり実りのないものだった。今日のところは帰るよう山本先生に説得されて松田は校舎の玄関を出た。

山本先生 美術学校の教員

 松田さんが妹の失踪を伝えに来た時、これは大変なことになったと思いました。

 安岡教授は日頃からモデルさん達からの評判が悪かったのです。芸術を追い求めるあまりモデルを物のように扱い無理を強いたりすることが多いようでした。学校で手配しているモデルさん達では、安岡教授のモデルを務めてくれる人はいなくなりました。学校としては、日本美術会の重鎮である安岡教授にモデルがいないなど、あってはならないことでした。

 そのころ松田さんとユカリさんが訪ねてきたのです。ユカリさんが絵画の道へ進みたいとの相談でした。お父様の松田画伯はこの美術学校へも時々講師として来ていたので、面識のある私を頼ってくれたのです。松田画伯は残念なことに突然の事故でお亡くなりになりました。私は松田さんとユカリさんのことはずっと気になっていました。二人の力になってあげたいと思ったのはもちろんですが、私はユカリさんを見てすぐに、安岡教授のモデルにならないか持ちかけました。モデルになれば勉強にもなるし、この学校へも入学しやすくなるだろう、と。安岡教授もまさか松田画伯のお嬢さんに対して失礼なことはしないはずだ、そんな算段もありました。今思えば、甘い考えでした。ユカリさんが帰っていないと聞いた時、私はすぐに安岡教授を疑いました。どこかに監禁でもしているのではないか、私は真っ青になりながら安岡教授の部屋へ向かいました。

 安岡教授はたいそう機嫌が悪く、私を部屋へ入れようとしませんでした。少しだけ開けられたドアの隙間から私は問いかけました。

「安岡教授、ユカリさんが帰っていないそうです」

「その話はさっき聞いた。私は何も知らない。もうその話はしないでくれ」

 安岡教授は私を押しのけてドアを閉めました。そして鍵をかける音がしました。

 何度かドアを叩いたり懇願したりしましたが、吉岡教授の返答はありませんでした。

 

 しかたなく自分の部屋へ戻ると松田さんが切羽詰まった表情で待っていました。吉岡教授の様子を伝えると、松田さんは薄目を開けて私を睨んで、学校の中を調べさせてくれと言いました。私はその迫力に怯みそうになりましたが、とにかく今日のところは、となだめて松田さんには帰ってもらいました。松田さんの力になってあげたい気持ちはやまやまでしたが、これ以上、安岡教授の機嫌をそこねる訳にはいきません。松田さんがおとなしく校舎を出ていくと、私は内心ほっとしました。少し気を落ち着けて、どうしたらいいか考えてみよう、途方に暮れながらも、私には為す術はありませんでした。

画像 マンガ 山本先生を訪ねる兄と妹

 翌日、警官がやってきて美術学校を捜索しましたが、ユカリさんは見つかりませんでした。

 松田さんは納得しませんでした。ユカリさんは、お父上の死後、美術学校以外に外出することはなくなっていた、家にいないのなら美術学校にいるはずだ、美術学校で何かあったとしか考えられない、そう言い張りました。

 松田さんはそれから毎日のようにやってきましたが、学校内を歩き回ることは許可しませんでした。女性ばかりの学校で男の人がうろついたり、失踪した人の話などして生徒達を不安にさせるわけにはいかなかったのです。この件は公にはされず、校長先生にも生徒達にも伝えられませんでした。ユカリさんの失踪に美術学校は関わっていないのです。警察もそのように判断したので、次第に私は松田さんの訪問を煩わしく思うようになってきました。

 一月ほど経つと松田さんが美術学校へ来ることはなくなりました。しかし私の心は晴れませんでした。安岡教授は何かを知っているのではないか、私は注意深く安岡教授を観察しました。しかし安岡教授は普段通り、感情の起伏は激しいものの取り立てて様子がおかしいことはありませんでした。私は一番恐ろしい結末も考えましたが、まさか安岡教授がユカリさんを手に掛けるとは、どうしても思えませんでした。安岡教授はこれまで通り機嫌のいい時は本当に朗らかだったのです。

美術学校の生徒たち

 ある放課後、生徒達の騒ぐ声が聞こえてきました。

「何を騒いでいるのです。もう下校時間ですよ」

「山本先生、この本、見てください」

 リーダー格のメグミさんが差し出した洋書には不気味な挿絵がありました。

「図書館でフミさんが見つけてきたのだけど、フミさんったら」

「どうしたの。フミさん、話してみなさい」

 私に促されてフミさんはしぶしぶ話し出しました。

「校長室の壁に掛けてある絵が、この絵に似ているなと思って」

「校長室?フミさん、届け物を置いておくよう頼んだことはあるけれど、室内をあれこれ物色することは許しませんよ」

「いえ、物色なんてしていません。絵が目に入ってしまうのです」

 フミは思い切った様子でしゃべりだした。

「先生、この間、校長室へ行った時、久しぶりに絵を見たのです。目に入ってしまったのです。そうしたら、絵の中の人が、人が増えていたのです」

「増えていた?」

「その時は気のせいだろうと思って忘れていました。だけど図書館でこの本を見つけて」

 本のタイトルは『降霊会』となっていました。挿絵は確かに校長室の絵と似ていました。

「フミさん、この挿絵を見つけて、すごく怖がっちゃって」

「だって降霊会だなんて、校長室の絵も降霊会の絵かもしれないと思うと怖くなってしまって。そういう絵って、呪いとかありそうでしょう」

「落ち着きなさい。校長室の絵は、校長先生がご自分で持ち込まれた絵です。きっと大事になさっている絵なのでしょう」

 私はフミさんの手から洋書を取り上げました。

「これ以上校長室のことを何か言うことは許しません。この話はもう終わりです。さあ、もう帰りの支度をしなさい」

 

 私は常日頃からフミさんの観察眼に感心していました。おっとりして優柔不断だけど、ほかの人が見過ごしてしまうような些細な事にすぐに気付くような、とても目ざとい子でした。

 私はフミさんに気を付けなければ、と思いました。小さな変化に敏感なフミさんは自分では物事の意味を深く突き詰めたりしないけれど、フミさん近くにはいつもメグミさんがいる。彼女は本当に利発で賢くて判断も早い。フミさんの気付いた物事にメグミさんが意味付けを始めたら、事態が悪いほうへ転がるかもしれない。そしてサキさん、サキさんは・・・。

 ユカリさんの失踪は安岡教授や美術学校は関係ない、それは私の願望であり、そしてやがてそれは私の信念となっていったのです。

 私はフミさんやメグミさんたちを注意深く見張ることにしました。 

校長室

 ユカリさんの身が心配でなんとか捜し出したい気持ちはもちろん私にもありました。ユカリさんは何処にいるのだろう。やはりユカリさんは学校の中でいなくなったのだろうか、時折そんな思いに囚われて、学校内でユカリさんが隠れていそうな場所がないか、つい捜してしまうこともありました。

 

 そんなある日、校長先生に用があり私は校長室へ向かいました。部屋の扉を開けて灯りをつけると、何故か壁に飾ってある額縁に引き寄せられて、その絵の前に立ちました。

「ああっ、これは」

 私の身体は震えだしました。

 絵のなかにユカリさんがいたのです。

城を出たサトウ

画像 ハンスとトーラ

サトウは馬を走らせた。夜の帳が下りて闇は深まっていた。細い三日月の光だけが頼りの険しい山道をペガサスとともに駆け降りた。足元が暗く、何度も藪に突っ込み、大木にぶつかりそうになった。興奮するペガサスに声を掛けて落ち着かせた。「ペガサス、おまえを信じているよ」

 山を駆ける

 その時、木々のざわめきや獣の気配とは違った何かの物音が耳に入った。微かに響くざわめきがこちらへ向かってやって来る。それは馬の走る音、山をかき分け進む馬のヒズメの音だった。そして遠い微かなその物音はサトウとペガサスを目指して次第に近付いてきた。

「ペガサス」

 サトウは馬に頼んだ。

「おまえは村までの道を知っているのだろう。どうか私を村まで運んでおくれ」

画像 マンガ 山を駆けるサトウ

 ペガサスは前足を上げて大きくいななくと、急に方向転換して藪の奥深くへと突き進んだ。しかし、背後に響いていたヒズメの音がどんどん大きくなり、それはすぐ側まで迫ってきた。

「サトウ」

 トーラの声が耳に届いた。

「待てえ~、逃がしはしない」

 トーラはノアを駆ってサトウとの距離を縮めてきた。

 サトウはペガサスにしがみつき必死で逃げた。トーラの声はすぐ後ろに響いていた。

 背後を振り返ると、近付いてきた馬上のトーラの手には荒縄が巻かれていた。

 そしてトーラは手を振りかざし、荒縄をサトウめがけて放った。サトウの視界に荒縄の先に括られた鉤が目に入った。瞬時に顔をそむけたが頬のすぐ脇で強い衝撃を感じた。

 トーラの縄は確実にサトウの顔を標的としていた。しかしペガサスが体勢をずらしたおかげでサトウは命拾いした。いや、ちがう。荒縄だったせいか?もしあの金色の縄梯子が完成していたら私は確実に縄に取り込まれていたのではないだろうか。サトウは必死に逃げながらも、頭の片隅でふともたげたそんな思いに戦慄した。

 その時、ペガサスは宙に舞った。深い峡谷の向こう側へジャンプしたのだ。サトウのすぐ後ろまで迫っていたトーラは手を伸ばしてサトウを捕えようとした。しかしトーラはバランスを崩した。つられてノアが倒れ込み、トーラは大きく悲鳴をあげた。

「ああっ」

 トーラとノアは空に浮いたかと思うと、そのまま深い谷底へと落下していった。

「トーラ」

 歩みを止めたペガサスの馬上でサトウは見た。地の底へと落ちていくトーラとノアの姿を。助けを求めるように両手を宙に伸ばすトーラの姿が目に焼き付いた。トーラの悲鳴が耳の奥でこだました。

 麓の村

 馬の蹄の音が遠くから響いている。麓の村で臥せっていたサトウはベッドから起き上がった。まだ幻聴に惑わされているようだ。しかし窓に目を向けると山道を抜けて白い馬が駆けてくるのが見えた。美しい少年が馬を駆っていた。

 その少年はサトウの部屋へやってきた。金色の巻き毛は乱れ、バラ色の頬は悲しみで歪んでいた。

「サトウ、具合はどう?」

「それより、トーラは」

 ハンスは首を振った。

「谷底から引き上げたけど、手の施しようがなかった」

「そうか、トーラはもう・・」

 トーラはどうなったのか、村に着いてからもトーラのことが頭から離れなかった。谷底に落ちていくトーラ。その目はサトウを捉えていた。叫び声は深夜の森にいつまでもこだましていた。寝ても覚めても、トーラの目と声が繰り返しサトウを襲って離さなかった。

画像 マンガ トーラはどうなった

 ハンスは顔を上げると心配そうにサトウの顔を見つめた。

「顔に、頬に深い傷がついてる」

 ハンスは懐から取り出した薬をサトウの頬に塗った。

「傷に良く効く薬草だよ」

「ありがとう、ハンス」

 後悔や罪の意識がないまぜになってトーラを失った悲しみがサトウを襲っていた。ハンスが優しく傷の手当てをしてくれたことでサトウの気持ちは少し和らいだ。その一方、サトウはハンスが抱えてきた荷物が気になっていた。ハンスはサトウの視線に気付いて荷物を引き寄せた。そして袋から取り出したのは一幅の額縁だった。

「トーラの形見だ」

 サトウは息を呑んだ。それは北棟の廊下に飾られていた絵だった。母親が入っていったあの絵。そして今、絵の中にいるのはトーラだった。サトウは言葉を失った。

 

「トーラは秘薬を飲んだんだ。そしてこの絵を見つめて」

 ハンスは力なく顔をゆがめた。笑おうとしたのかもしれない。

「わかるでしょう、絵の中に入っていった」

 サトウはよろめいてベッドに倒れこんだ。
 ハンスはもう笑っていなかった。
 倒れたサトウを心配する素振りも見せなかった。

「トーラはこの絵のなかで生きることを選んだ」

 ハンスは麻袋を差し出した。

「この秘薬と絵をサトウに渡すよう、それがトーラの最後の言葉だった」

 絵の中でトーラが笑った。

「トーラはサトウと一緒にヤーパンへ行くのさ」

 甲高い笑い声が絵の彼方から響いてくるような気がした。サトウは震える手で耳を塞いだ。

癒しのハンス

画像 ハンスとサトウ

鈍痛のなかサトウは目を覚ました。頭が重く胃がむかむかした。身体を動かしてみると左手と右足が鎖で繋がれていた。サトウは頭中の霧をかき分けるようにして記憶を辿った。興奮したトーラに注射を打たれたのだ。睡眠剤かあるいは麻薬の類かもしれない。一晩この部屋で過ごしたようだった。窓には鉄格子が嵌め込まれていたが、その向こうから明け方の気配が伝わってきた。

 サトウとハンス

 サトウは頭と身体の痛みにもがきながらウトウトとまどろんでいた。お日様が高く昇った午後、扉をそっと叩く音がした。廊下に誰かいるようだった。

「サトウ、そこにいるの?」

「ハンス!」

「今開けるから待ってて」

 鍵を開けようとする音が何度かして扉の向こうからハンスが顔を覗かせた。

「やっと見つけた」

「ハンス、助けに来てくれたのかい」

「サトウが何処に閉じ込められたのか判らなくて探していたんだ」

「ここは城の中なのか?」

「西棟の奥だよ。牢獄のような部屋が城中あちこちにあるんだ」

 ハンスはサトウの手足に付けられた鎖を手に取り、しばらく見つめるとあっさり解錠した。

「鍵を開けるのはすぐ出来るけどトーラの目を盗んでサトウを探すのは大変だったよ」

「恩に着る。ありがとう、ハンス」

「サトウ、すぐに城を出たほうがいい」

「ああ、私もそうしたい」

「トーラは何をしだすかわからない」

「母親に城の継承を否定された。そのショックを私は分かってやらなかった。いや、私自身、この城を継ぐのはハンス、君だと思い始めていた。トーラはそれを感じ取って怒りの矛先を私に向けたのだろう」

「ギヨン家を継ぐのはトーラだよ。ずっとみんなそう言ってた」

「それでも運命というものがあるのだ。自ずと誰が当主になるのか皆わかり始める時がくる」

「僕はそんな気ないよ。黄金の鍵はお母様からもらったけど。そうそう、トーラは鍵を握りしめて離さず自分のものにしちゃったんだ」

「秘薬は?」

「秘薬には目もくれず床に置きっぱなしだったから僕が持ってる」

ハンスは懐から麻袋を取り出した。

「サトウ、ペガサスに乗って山を下りて」

「君はどうするんだ」

「トーラには八つ当たりする相手が必要さ」

「しかし今回は尋常でない興奮状態だ。これで私までいなくなったら」

「僕は子どもの頃から慣れているから」

「私が逃げたことを知ったらトーラは」

「日が落ちてから馬小屋に来て。誰にも見つからないように」

「ハンス、君が心配だ」

「いいから。僕にまかせて。ペガサスはちゃんと麓の村までサトウを連れて行ってくれる」

画像 マンガ サトウを助けるハンス

 幽閉のサトウ

 「食事だ」下僕の声がして、扉に取り付けられた小さな窓からパンが差し入れられた。解錠したことは下僕にばれていないようだった。牢獄のような部屋がたくさんある城、幽閉された者に淡々と食事を運ぶ下僕。サトウは改めて恐怖を感じた。婚約者の生まれた家を訪問しただけのつもりが、常軌を逸した世界に滞在していたのだ。

 まだ身体が重くてドアまで動くのも辛かった。城を出る日没までに体力を回復させなければ。なんとか食物を飲み込み、ハンスが自由にしてくれた手足を少しずつ動かして身体を慣らした。

 トーラにはすまないと思う。しかし半狂乱となったトーラにはどんな言葉も通じないだろう。人に薬を打って閉じ込めるとは、まともな精神状態とは思えない。このままでは身の危険を感じる。夏休みが明けてトーラがもし大学に戻ってきたら、話し合うのはその時だ。夏休み、なんて平和な響きだ。そんな日常に戻れる時が来るのだろうか。今はとにかくこの城から逃げなければ。

 馬小屋

 日が落ちるとサトウはそっと扉を開けて廊下へ出た。西棟と聞いていたので馬小屋までの方角はすぐにわかった。誰にも見つからず上手く庭へ出て馬小屋まで辿り着いた。

「サトウ、ここだよ」

白い馬の手綱を引いてハンスが植え込みから現れた。

「サトウ、これを持っていって」

ハンスは麻袋を手にしていた。

「これは秘薬じゃないか。こんな大事なもの持ち出せない」

「いいんだ。もう要らない。研究にでも使ってよ」

「だめだ、これは家宝だ」

「サトウは僕が当主になるって言ったでしょう。それが本当なら僕はこんなの受け継ぎたくないよ」

「ハンス、これはギヨン家のものだ。僕は預かることはできない」

 ハンスは力なく頷くとペガサスの顔をそっと撫でた。

「ペガサス、サトウを村まで送り届けてね」

 サトウはハンスを抱きしめた。

「ありがとう、ハンス」

 ハンスはサトウの背中に手を回しギュッとしがみついた。

「サトウ、いつかまた会えたらいいね」

 

 ハンスに別れを告げてサトウはペガサスにまたがり城を後にした。サトウは一度だけ振り返った。ハンスの白い顔が闇に浮かんでいた。宵闇のなかでそこだけ光り輝いて、ハンスは天使のように佇んでいた。

画像 マンガ ハンスとの別れ

嘆きのハンス

画像 トーラとハンスと母

「鍵は開かなかった」ハンスはベッドにうつぶせになり泣いていました。「鍵も縄もこんなに上手なのに、トーラは僕のこと、マイスターじゃないって言うんだ」ハンスが何故マイスターになれないのか、私は理解しました。私がいる間、この世界に存在している間は、まだ駄目なのだ。代替わりをしなければ。 「地下室へ、行きます。その絵を持って、付いてきなさい」

画像 マンガ ベッドで泣くハンス

 地下室

「トーラ、あなたに、鍵は、開けられない」

 暗い地下室の廊下に、ギヨン夫人とハンスが立っていた。

 

「鍵を、よこしなさい、私が、開けます」

「い、いやよ。マスターキーは私のものよ」

 鍵穴に差さったままの鍵をトーラが抜こうとする前に、ハンスが素早く扉に駆け寄り、鍵穴から鍵を抜き取った。

「お母様、やったよ」

 ハンスは満面の笑みで母親へ鍵を渡した。

「ハンス、わからないの?あれはお母様じゃなくて死体なのよ」

「いいえ、トーラ、私は生きているのです」

 

 ギヨン夫人は手にした鍵を扉に向けた。指先は干からびて震えていたが、黄金の鍵は吸い込まれるように鍵穴へと差し込まれた。
 鈍い金属音が響き、扉はいとも簡単に開いた。

「開いた」

「そんな」

「すごいよ、お母様。お母様こそマイスターだったんだね」

 ギヨン夫人は地下倉庫のなかに入った。倉庫の中は真っ暗闇だったが、塵ひとつなくきれいな空気が漂っていた。ランタンを手にしていたサトウがギヨン夫人の後に続き、トーラとハンスもあわてて後を追いかけた。

 広々とした地下倉庫には壁際に棚が並んでいた。棚にはたくさんの種類の縄や様々な形状の鍵や錠前が大切に保管されていた。

 ギヨン夫人は迷わず奥の一角へ歩み寄り、小さな麻袋を取り上げた。

「これが、ギヨン家に伝わる秘薬です」

 干からびた指先で麻袋を掲げながら、ギヨン夫人はみんなの顔を見回した。

 母の独白

 それは死なない薬なのです。私は秘薬を飲んで定められた世界へ行くはずだった。そういう定めだったのに、お父様は私を押しとどめた。お父様は私を失いたくないと言いました。それは本心でしょうが、研究者としての探求心を押さえることができなかったのでしょう。秘薬を飲むとどうなるのか、お父様は私をあの隠し部屋へ置いて観察を続けました。しかしあの薬は老いや病を治したりできないのです。死なないだけです。醜く老いていく私をお父様は直視できなくなり研究を諦めることにしました。ところが老いと病は私の目を閉じさせました。私はもう目を開けることができなかったのです。私はそのままあの部屋の棺に眠り続けました。

「お母様」

 ハンスの声に私は目を覚ましました。
 ハンスは私を見て驚きました。しかしハンスは、溢れんばかりの愛情のこもった瞳で私を見つめていました。
 そしてハンスは私の顔に触れたのです。
 その瞬間、雷鳴のような何かが轟きました。 

 ハンスが立ち去ったあと、あたりは静まり返っていました。ハンスが触れたことで何かの封印が解かれたのかもしれません。身体のなかを温かい血が流れ始めたような気がしました。私は自分の手が動くのに気付きました。私は動けるようになったのです。棺の蓋は開いたままでした。私は棺の縁に手を掛けて、そうっと起き上がりました。棺を出て歩いてみました。そして部屋の扉を開けて廊下に出たのです。

 私は廊下に掛けられている絵を見ないようにしました。

 こんな干からびた死体のようになっていながら、壁の絵の人物と目を合わせてはいけない、という昔からの言い伝えを守ってしまうのでした。

 ですが私は知っていました。私が助かるにはこの絵に頼るしかないのだ、ということを。

 母と子

「これは死なない薬です。これを飲めば、死なないけれど老いていきます。この秘薬はハンスのもの。ハンスはこの家を受け継ぐのですから」

「いきなり現れて勝手なことを言わないで。この家を継ぐのは私よ」

「いいえ、ハンスは、私を目覚めさせた。それは当主の証です」

「うそよ。お母様はいつもハンスのことだけ可愛がっていた。だからハンスに継がせたいのよ」

「そんなことはありません。ハンスは立派な城主となることでしょう」

 トーラは手にしていたランタンを母親に投げつけようとした。

「あぶない」

 サトウはトーラを押さえつけた。

「はなして。私が今までどんなにこの家のことを考えてきたか知りもしないで」

 

「ハンス、あの絵をここへ」

 ハンスは廊下に立てかけていた額縁を母親の前へ持ってきた。
 トーラは子どもの頃からのクセで思わず目をそらした。

「ハンス、絵をこちらに向けて」

 ハンスは絵を夫人の正面へ向けた。
 ギヨン夫人はハンスに笑いかけた。

「この絵の言い伝えは知っていますね」

 トーラはゴクリと唾を飲んだ。

「お母様、まさか、絵の中へ、行くつもり?」

「お母様、どこにも行かないで」

 ハンスがギヨン夫人に抱きついた。

「言うことを聞けば一緒にいてくれるって約束したじゃない」

 ギヨン夫人はハンスの金色の髪を優しく撫でた。

「私がこの世界で生き続けることは許されないのです」

「言いたいことだけ言っていなくなるなんて卑怯よ。逃がさないわ。ハンスが継ぐなんて認めない。よくも私をないがしろにしたわね」

 サトウの手を振りほどいてトーラは母親につかみかかろうとした。

「代替わりをしないといけません」

 ギヨン夫人は慈愛を込めた目でトーラに微笑みかけた。そしてハンスの抱えた絵を見つめた。きっと、絵の人物の目を見つめているのだ、誰もが固唾を呑んでギヨン夫人を見守った。あっという間の出来事だった。目の前で、消えたわけではなく、するするとその場からいなくなってしまったのだ。

画像 マンガ 地下室の母と子

「お母様?どこへ行ったの?」

 ハンスは持っていた絵を裏返して覗き込もうとした。

「よしなさい」

 トーラがハンスの手から絵を奪い取った。

「お母様!」

 トーラの持つ絵を見つめたハンスが大きく声を上げた。
 つられてトーラとサトウも絵を覗き込んだ。
 つい今しがたまでここにいたギヨン夫人が、絵の中に立っていた。

 それは一瞬のことだったのか、あるいは長い時間が流れたのか。干からびたミイラのようなおぞましい姿をしたものが、みるみる人間の体を成したものへと変わって行った。肌の色がどんどん明るくなり瑞々しさを取り戻し、深いしわの刻まれた顔は張りのあるものへと変わっていった。

 美しく気高い婦人が絵のなかに立っていた。

「お母様、きれい」

 ハンスは嬉しそうに絵に見入った。

「絵のなかでは、若返るの?」

 母親の姿に眼を見張ったトーラがつぶやいた。

「この絵こそが、秘法?」

 絵のなかの美しい婦人は皆を見回してからテーブルの席についた。そしてそれきり動かなくなった。