物語だんだん

だんだん物語となるべし段の談

城を出たサトウ

画像 ハンスとトーラ

サトウは馬を走らせた。夜の帳が下りて闇は深まっていた。細い三日月の光だけが頼りの険しい山道をペガサスとともに駆け降りた。足元が暗く、何度も藪に突っ込み、大木にぶつかりそうになった。興奮するペガサスに声を掛けて落ち着かせた。「ペガサス、おまえを信じているよ」

 山を駆ける

 その時、木々のざわめきや獣の気配とは違った何かの物音が耳に入った。微かに響くざわめきがこちらへ向かってやって来る。それは馬の走る音、山をかき分け進む馬のヒズメの音だった。そして遠い微かなその物音はサトウとペガサスを目指して次第に近付いてきた。

「ペガサス」

 サトウは馬に頼んだ。

「おまえは村までの道を知っているのだろう。どうか私を村まで運んでおくれ」

画像 マンガ 山を駆けるサトウ

 ペガサスは前足を上げて大きくいななくと、急に方向転換して藪の奥深くへと突き進んだ。しかし、背後に響いていたヒズメの音がどんどん大きくなり、それはすぐ側まで迫ってきた。

「サトウ」

 トーラの声が耳に届いた。

「待てえ~、逃がしはしない」

 トーラはノアを駆ってサトウとの距離を縮めてきた。

 サトウはペガサスにしがみつき必死で逃げた。トーラの声はすぐ後ろに響いていた。

 背後を振り返ると、近付いてきた馬上のトーラの手には荒縄が巻かれていた。

 そしてトーラは手を振りかざし、荒縄をサトウめがけて放った。サトウの視界に荒縄の先に括られた鉤が目に入った。瞬時に顔をそむけたが頬のすぐ脇で強い衝撃を感じた。

 トーラの縄は確実にサトウの顔を標的としていた。しかしペガサスが体勢をずらしたおかげでサトウは命拾いした。いや、ちがう。荒縄だったせいか?もしあの金色の縄梯子が完成していたら私は確実に縄に取り込まれていたのではないだろうか。サトウは必死に逃げながらも、頭の片隅でふともたげたそんな思いに戦慄した。

 その時、ペガサスは宙に舞った。深い峡谷の向こう側へジャンプしたのだ。サトウのすぐ後ろまで迫っていたトーラは手を伸ばしてサトウを捕えようとした。しかしトーラはバランスを崩した。つられてノアが倒れ込み、トーラは大きく悲鳴をあげた。

「ああっ」

 トーラとノアは空に浮いたかと思うと、そのまま深い谷底へと落下していった。

「トーラ」

 歩みを止めたペガサスの馬上でサトウは見た。地の底へと落ちていくトーラとノアの姿を。助けを求めるように両手を宙に伸ばすトーラの姿が目に焼き付いた。トーラの悲鳴が耳の奥でこだました。

 麓の村

 馬の蹄の音が遠くから響いている。麓の村で臥せっていたサトウはベッドから起き上がった。まだ幻聴に惑わされているようだ。しかし窓に目を向けると山道を抜けて白い馬が駆けてくるのが見えた。美しい少年が馬を駆っていた。

 その少年はサトウの部屋へやってきた。金色の巻き毛は乱れ、バラ色の頬は悲しみで歪んでいた。

「サトウ、具合はどう?」

「それより、トーラは」

 ハンスは首を振った。

「谷底から引き上げたけど、手の施しようがなかった」

「そうか、トーラはもう・・」

 トーラはどうなったのか、村に着いてからもトーラのことが頭から離れなかった。谷底に落ちていくトーラ。その目はサトウを捉えていた。叫び声は深夜の森にいつまでもこだましていた。寝ても覚めても、トーラの目と声が繰り返しサトウを襲って離さなかった。

画像 マンガ トーラはどうなった

 ハンスは顔を上げると心配そうにサトウの顔を見つめた。

「顔に、頬に深い傷がついてる」

 ハンスは懐から取り出した薬をサトウの頬に塗った。

「傷に良く効く薬草だよ」

「ありがとう、ハンス」

 後悔や罪の意識がないまぜになってトーラを失った悲しみがサトウを襲っていた。ハンスが優しく傷の手当てをしてくれたことでサトウの気持ちは少し和らいだ。その一方、サトウはハンスが抱えてきた荷物が気になっていた。ハンスはサトウの視線に気付いて荷物を引き寄せた。そして袋から取り出したのは一幅の額縁だった。

「トーラの形見だ」

 サトウは息を呑んだ。それは北棟の廊下に飾られていた絵だった。母親が入っていったあの絵。そして今、絵の中にいるのはトーラだった。サトウは言葉を失った。

 

「トーラは秘薬を飲んだんだ。そしてこの絵を見つめて」

 ハンスは力なく顔をゆがめた。笑おうとしたのかもしれない。

「わかるでしょう、絵の中に入っていった」

 サトウはよろめいてベッドに倒れこんだ。
 ハンスはもう笑っていなかった。
 倒れたサトウを心配する素振りも見せなかった。

「トーラはこの絵のなかで生きることを選んだ」

 ハンスは麻袋を差し出した。

「この秘薬と絵をサトウに渡すよう、それがトーラの最後の言葉だった」

 絵の中でトーラが笑った。

「トーラはサトウと一緒にヤーパンへ行くのさ」

 甲高い笑い声が絵の彼方から響いてくるような気がした。サトウは震える手で耳を塞いだ。

癒しのハンス

画像 ハンスとサトウ

鈍痛のなかサトウは目を覚ました。頭が重く胃がむかむかした。身体を動かしてみると左手と右足が鎖で繋がれていた。サトウは頭中の霧をかき分けるようにして記憶を辿った。興奮したトーラに注射を打たれたのだ。睡眠剤かあるいは麻薬の類かもしれない。一晩この部屋で過ごしたようだった。窓には鉄格子が嵌め込まれていたが、その向こうから明け方の気配が伝わってきた。

 サトウとハンス

 サトウは頭と身体の痛みにもがきながらウトウトとまどろんでいた。お日様が高く昇った午後、扉をそっと叩く音がした。廊下に誰かいるようだった。

「サトウ、そこにいるの?」

「ハンス!」

「今開けるから待ってて」

 鍵を開けようとする音が何度かして扉の向こうからハンスが顔を覗かせた。

「やっと見つけた」

「ハンス、助けに来てくれたのかい」

「サトウが何処に閉じ込められたのか判らなくて探していたんだ」

「ここは城の中なのか?」

「西棟の奥だよ。牢獄のような部屋が城中あちこちにあるんだ」

 ハンスはサトウの手足に付けられた鎖を手に取り、しばらく見つめるとあっさり解錠した。

「鍵を開けるのはすぐ出来るけどトーラの目を盗んでサトウを探すのは大変だったよ」

「恩に着る。ありがとう、ハンス」

「サトウ、すぐに城を出たほうがいい」

「ああ、私もそうしたい」

「トーラは何をしだすかわからない」

「母親に城の継承を否定された。そのショックを私は分かってやらなかった。いや、私自身、この城を継ぐのはハンス、君だと思い始めていた。トーラはそれを感じ取って怒りの矛先を私に向けたのだろう」

「ギヨン家を継ぐのはトーラだよ。ずっとみんなそう言ってた」

「それでも運命というものがあるのだ。自ずと誰が当主になるのか皆わかり始める時がくる」

「僕はそんな気ないよ。黄金の鍵はお母様からもらったけど。そうそう、トーラは鍵を握りしめて離さず自分のものにしちゃったんだ」

「秘薬は?」

「秘薬には目もくれず床に置きっぱなしだったから僕が持ってる」

ハンスは懐から麻袋を取り出した。

「サトウ、ペガサスに乗って山を下りて」

「君はどうするんだ」

「トーラには八つ当たりする相手が必要さ」

「しかし今回は尋常でない興奮状態だ。これで私までいなくなったら」

「僕は子どもの頃から慣れているから」

「私が逃げたことを知ったらトーラは」

「日が落ちてから馬小屋に来て。誰にも見つからないように」

「ハンス、君が心配だ」

「いいから。僕にまかせて。ペガサスはちゃんと麓の村までサトウを連れて行ってくれる」

画像 マンガ サトウを助けるハンス

 幽閉のサトウ

 「食事だ」下僕の声がして、扉に取り付けられた小さな窓からパンが差し入れられた。解錠したことは下僕にばれていないようだった。牢獄のような部屋がたくさんある城、幽閉された者に淡々と食事を運ぶ下僕。サトウは改めて恐怖を感じた。婚約者の生まれた家を訪問しただけのつもりが、常軌を逸した世界に滞在していたのだ。

 まだ身体が重くてドアまで動くのも辛かった。城を出る日没までに体力を回復させなければ。なんとか食物を飲み込み、ハンスが自由にしてくれた手足を少しずつ動かして身体を慣らした。

 トーラにはすまないと思う。しかし半狂乱となったトーラにはどんな言葉も通じないだろう。人に薬を打って閉じ込めるとは、まともな精神状態とは思えない。このままでは身の危険を感じる。夏休みが明けてトーラがもし大学に戻ってきたら、話し合うのはその時だ。夏休み、なんて平和な響きだ。そんな日常に戻れる時が来るのだろうか。今はとにかくこの城から逃げなければ。

 馬小屋

 日が落ちるとサトウはそっと扉を開けて廊下へ出た。西棟と聞いていたので馬小屋までの方角はすぐにわかった。誰にも見つからず上手く庭へ出て馬小屋まで辿り着いた。

「サトウ、ここだよ」

白い馬の手綱を引いてハンスが植え込みから現れた。

「サトウ、これを持っていって」

ハンスは麻袋を手にしていた。

「これは秘薬じゃないか。こんな大事なもの持ち出せない」

「いいんだ。もう要らない。研究にでも使ってよ」

「だめだ、これは家宝だ」

「サトウは僕が当主になるって言ったでしょう。それが本当なら僕はこんなの受け継ぎたくないよ」

「ハンス、これはギヨン家のものだ。僕は預かることはできない」

 ハンスは力なく頷くとペガサスの顔をそっと撫でた。

「ペガサス、サトウを村まで送り届けてね」

 サトウはハンスを抱きしめた。

「ありがとう、ハンス」

 ハンスはサトウの背中に手を回しギュッとしがみついた。

「サトウ、いつかまた会えたらいいね」

 

 ハンスに別れを告げてサトウはペガサスにまたがり城を後にした。サトウは一度だけ振り返った。ハンスの白い顔が闇に浮かんでいた。宵闇のなかでそこだけ光り輝いて、ハンスは天使のように佇んでいた。

画像 マンガ ハンスとの別れ

嘆きのハンス

画像 トーラとハンスと母

「鍵は開かなかった」ハンスはベッドにうつぶせになり泣いていました。「鍵も縄もこんなに上手なのに、トーラは僕のこと、マイスターじゃないって言うんだ」ハンスが何故マイスターになれないのか、私は理解しました。私がいる間、この世界に存在している間は、まだ駄目なのだ。代替わりをしなければ。 「地下室へ、行きます。その絵を持って、付いてきなさい」

画像 マンガ ベッドで泣くハンス

 地下室

「トーラ、あなたに、鍵は、開けられない」

 暗い地下室の廊下に、ギヨン夫人とハンスが立っていた。

 

「鍵を、よこしなさい、私が、開けます」

「い、いやよ。マスターキーは私のものよ」

 鍵穴に差さったままの鍵をトーラが抜こうとする前に、ハンスが素早く扉に駆け寄り、鍵穴から鍵を抜き取った。

「お母様、やったよ」

 ハンスは満面の笑みで母親へ鍵を渡した。

「ハンス、わからないの?あれはお母様じゃなくて死体なのよ」

「いいえ、トーラ、私は生きているのです」

 

 ギヨン夫人は手にした鍵を扉に向けた。指先は干からびて震えていたが、黄金の鍵は吸い込まれるように鍵穴へと差し込まれた。
 鈍い金属音が響き、扉はいとも簡単に開いた。

「開いた」

「そんな」

「すごいよ、お母様。お母様こそマイスターだったんだね」

 ギヨン夫人は地下倉庫のなかに入った。倉庫の中は真っ暗闇だったが、塵ひとつなくきれいな空気が漂っていた。ランタンを手にしていたサトウがギヨン夫人の後に続き、トーラとハンスもあわてて後を追いかけた。

 広々とした地下倉庫には壁際に棚が並んでいた。棚にはたくさんの種類の縄や様々な形状の鍵や錠前が大切に保管されていた。

 ギヨン夫人は迷わず奥の一角へ歩み寄り、小さな麻袋を取り上げた。

「これが、ギヨン家に伝わる秘薬です」

 干からびた指先で麻袋を掲げながら、ギヨン夫人はみんなの顔を見回した。

 母の独白

 それは死なない薬なのです。私は秘薬を飲んで定められた世界へ行くはずだった。そういう定めだったのに、お父様は私を押しとどめた。お父様は私を失いたくないと言いました。それは本心でしょうが、研究者としての探求心を押さえることができなかったのでしょう。秘薬を飲むとどうなるのか、お父様は私をあの隠し部屋へ置いて観察を続けました。しかしあの薬は老いや病を治したりできないのです。死なないだけです。醜く老いていく私をお父様は直視できなくなり研究を諦めることにしました。ところが老いと病は私の目を閉じさせました。私はもう目を開けることができなかったのです。私はそのままあの部屋の棺に眠り続けました。

「お母様」

 ハンスの声に私は目を覚ましました。
 ハンスは私を見て驚きました。しかしハンスは、溢れんばかりの愛情のこもった瞳で私を見つめていました。
 そしてハンスは私の顔に触れたのです。
 その瞬間、雷鳴のような何かが轟きました。 

 ハンスが立ち去ったあと、あたりは静まり返っていました。ハンスが触れたことで何かの封印が解かれたのかもしれません。身体のなかを温かい血が流れ始めたような気がしました。私は自分の手が動くのに気付きました。私は動けるようになったのです。棺の蓋は開いたままでした。私は棺の縁に手を掛けて、そうっと起き上がりました。棺を出て歩いてみました。そして部屋の扉を開けて廊下に出たのです。

 私は廊下に掛けられている絵を見ないようにしました。

 こんな干からびた死体のようになっていながら、壁の絵の人物と目を合わせてはいけない、という昔からの言い伝えを守ってしまうのでした。

 ですが私は知っていました。私が助かるにはこの絵に頼るしかないのだ、ということを。

 母と子

「これは死なない薬です。これを飲めば、死なないけれど老いていきます。この秘薬はハンスのもの。ハンスはこの家を受け継ぐのですから」

「いきなり現れて勝手なことを言わないで。この家を継ぐのは私よ」

「いいえ、ハンスは、私を目覚めさせた。それは当主の証です」

「うそよ。お母様はいつもハンスのことだけ可愛がっていた。だからハンスに継がせたいのよ」

「そんなことはありません。ハンスは立派な城主となることでしょう」

 トーラは手にしていたランタンを母親に投げつけようとした。

「あぶない」

 サトウはトーラを押さえつけた。

「はなして。私が今までどんなにこの家のことを考えてきたか知りもしないで」

 

「ハンス、あの絵をここへ」

 ハンスは廊下に立てかけていた額縁を母親の前へ持ってきた。
 トーラは子どもの頃からのクセで思わず目をそらした。

「ハンス、絵をこちらに向けて」

 ハンスは絵を夫人の正面へ向けた。
 ギヨン夫人はハンスに笑いかけた。

「この絵の言い伝えは知っていますね」

 トーラはゴクリと唾を飲んだ。

「お母様、まさか、絵の中へ、行くつもり?」

「お母様、どこにも行かないで」

 ハンスがギヨン夫人に抱きついた。

「言うことを聞けば一緒にいてくれるって約束したじゃない」

 ギヨン夫人はハンスの金色の髪を優しく撫でた。

「私がこの世界で生き続けることは許されないのです」

「言いたいことだけ言っていなくなるなんて卑怯よ。逃がさないわ。ハンスが継ぐなんて認めない。よくも私をないがしろにしたわね」

 サトウの手を振りほどいてトーラは母親につかみかかろうとした。

「代替わりをしないといけません」

 ギヨン夫人は慈愛を込めた目でトーラに微笑みかけた。そしてハンスの抱えた絵を見つめた。きっと、絵の人物の目を見つめているのだ、誰もが固唾を呑んでギヨン夫人を見守った。あっという間の出来事だった。目の前で、消えたわけではなく、するするとその場からいなくなってしまったのだ。

画像 マンガ 地下室の母と子

「お母様?どこへ行ったの?」

 ハンスは持っていた絵を裏返して覗き込もうとした。

「よしなさい」

 トーラがハンスの手から絵を奪い取った。

「お母様!」

 トーラの持つ絵を見つめたハンスが大きく声を上げた。
 つられてトーラとサトウも絵を覗き込んだ。
 つい今しがたまでここにいたギヨン夫人が、絵の中に立っていた。

 それは一瞬のことだったのか、あるいは長い時間が流れたのか。干からびたミイラのようなおぞましい姿をしたものが、みるみる人間の体を成したものへと変わって行った。肌の色がどんどん明るくなり瑞々しさを取り戻し、深いしわの刻まれた顔は張りのあるものへと変わっていった。

 美しく気高い婦人が絵のなかに立っていた。

「お母様、きれい」

 ハンスは嬉しそうに絵に見入った。

「絵のなかでは、若返るの?」

 母親の姿に眼を見張ったトーラがつぶやいた。

「この絵こそが、秘法?」

 絵のなかの美しい婦人は皆を見回してからテーブルの席についた。そしてそれきり動かなくなった。

黄金の鍵

画像 外科医サトウ

ハンスは燭台を手に暗い廊下を進んだ。奥の壁に掛けられた絵の前で立ち止るとうつむいた。これまでこの絵をちゃんと見たことがなかった。ハンスは意を決して顔を上げた。「ああっ」描かれている女性はハンスの祖母だった。祖母はハンスが小さい頃に亡くなった。ハンスがいたずらをする度にいつもかばってくれた祖母だった。その祖母が若く美しい姿で絵の中にいた。祖母がハンスを見て笑ったような気がした。ハンスはすぐに目をそむけた。目が合うと絵の中に吸い込まれる。幼い頃から聞かされた言い伝えがハンスの頭に叩き込まれていた。

 トーラとサトウ

 トーラとサトウは隠し部屋へと向かった。サトウはトーラに請われてまたここまで来たが、もうこれ以上トーラに振り回されたくない、これを最後に別れを告げよう、内心そう決意していた。

 廊下を進むとサトウは立ち止まった。

「絵がない」

「えっ」

 トーラも壁を見た。前に来たときは確かに掛けられていた絵が、まるでたった今、誰かに持ち去られたかのようになくなっていた。

「いったい誰が」

「お父様かペーターかしら。ここに来たことがばれたのかも」

 二人は顔を見合わせて佇んだ。

「行きましょう。考えていたって仕方ない」

 トーラに促されてサトウは隠し部屋の扉を開けた。

 

 トーラとサトウは奥へと進んだ。床に置かれた棺の前に来るとトーラは首を傾げた。

「サトウ、この棺の蓋、閉めたかしら」

「どうだったろう。閉めずにあわてて逃げた気がする」

「棺を開けてみましょう」

 トーラに促され、サトウは重い蓋をずらして床に置いた。

「ああっ」

「いない」

 棺はもぬけの殻だった。前に来た時には横たわっていた死体が消えていた。

 二人はしばらく空の棺を見つめていたが、やがてサトウは重い蓋を棺に戻した。

 サトウは心を決めた。もうベルリンへ戻ろう。これ以上この城にいることはできない。

 トーラとハンス

 ハンスは誰もいないのを見計らって、地下室へ続く階段を降りた。

一番奥の倉庫の前まで来ると、手にしていた鍵を取りだした。大きくて古い鍵だった。錠前に挿すと鍵はぴったりと収まった。ハンスは鍵を回した。

 しかし鍵は開かなかった。解錠できなかった。

「何をしているの」

 鍵と格闘していたハンスはギョッとして顔をあげた。

「トーラ、どうしてここに」

 ハンスは逃げ出そうと地下室の通路を駈け出した。しかし、トーラとサトウに行く手を阻まれて階段の手前で座り込んだ。

「手にしているものを見せなさい」

「いやだ」

「サトウ、ハンスが持っているものを取り上げて」

 しかしサトウは動かなかった。

「トーラ、ハンスの話を聞いてみよう」

「サトウ、私に逆らうつもり?」

「ハンス、何があったんだ」

「サトウ、ぼくの味方になって」

「僕は君の敵じゃないよ」

画像 マンガ地下室のハンス

 三人は東棟の奥の客間へ移った。

 ソファに座ったハンスを囲い込むようにして両脇にトーラとサトウが腰かけた。

「さあ、持っているものを見せて」

 ハンスはトーラの前に両手を出した。その手に握られていたのは、古びて鈍い光を放っている鍵、黄金でできた鍵だった。

「これは、この鍵は」

 トーラは鍵を受取るとしげしげと眺めた。

「どうやって手に入れたの?」

「お母様が僕のところにやってきて僕にくれたんだ」

「お母様って、あの棺に入っていた?」

「そうだよ。棺から起きだして僕の部屋まで歩いてきたんだ」

 サトウは背筋が凍った。トーラも顔をこわばらせた。

「棺の蓋が開いたから、自分で出て歩いてきたんだって」

「本当に、お母様だったの?」

「そうだよ。間違えるわけないじゃん」

「お母様がこの鍵を渡してくれたの?」

「うん、それから廊下の絵を取ってきてほしいって」

「お母様の頼みだから、廊下から絵を取ってきて地下室へも行ったのね。あんなに恐がりのくせに」

「お母様は暗い所しか歩けないって言っていた。それにたくさん歩けないって」

「ハンス、あなた恐くないの?」

「だってお母様だよ。恐いわけないよ」

「あなたのその能天気なところ、今回は役に立ったわ」

「なんだよ。役に立つもなにも、トーラには関係ないよ。ぼくとお母様の約束なんだから」

「棺の蓋を閉めたのも君なのか?」

「うん、お母様がまた棺で眠ってしまわないよう蓋をしたんだ」

「ハンス、お母様はあの絵と地下室の秘薬をどうするつもりなの?」

「知らない」

 ハンスは顔をそむけた。

「言いたくないならいいのよ。この鍵、この黄金の鍵があれば何でも手に入る」

 トーラは掌にのせた鍵を愛おしそうに撫でた。

「ハンス。あなたも知っているでしょう。うちの家宝。錠前術のマイスターだけが使える万能の鍵がある、それは黄金でできている」

「お母様は僕に鍵を渡すって。僕が受け継ぐんだって」

「いいえ、あなたは受け継げない。解錠できなかったのなら、あなたはマイスターではないのよ」

「そんなことない。僕、錠前術はマスターしている」

「でも鍵は開けられなかった」

「マイスターになるのは僕だよ。もう一度やってみる」

 ハンスはトーラの手から鍵を奪おうとしたがトーラは渡さなかった。

「私がやる」

「できるわけない。鍵に関しては、僕のほうがトーラより何倍も優秀なんだから」

「それは鍵を使ってみればわかることだわ」

 トーラは黄金の鍵を胸元に仕舞い込んだ。

「ねえ、返してくれよ。お母様は僕にくれたんだから」

「地下室へ行くわよ。ハンス、ついてらっしゃい」

「トーラの思い通りになんかならないよ」

 ハンスはするりとソファから滑りおり、軽い身のこなしで部屋を飛び出していった。

画像 マンガ東棟の客間

 トーラはサトウを従えて地下室の階段を下りた。奥の扉の前まで来ると、手にしていた黄金の鍵を鍵穴へ差し込んだ。

 鍵は開かなかった。

 トーラは鍵を引き抜いて差し直したり回したりしたが解錠できなかった。

「そんなはずないわ。ハンスが無理なら、私が、できるはず」

「僕がやってみようか」

「ばかなこと言わないで。サトウにできるはずないでしょう」

 トーラの剣幕に押されてサトウは伸ばしかけた手を引っ込めた。

「私かハンス、どちらかが開けなかったら、この家の伝統は途絶えてしまう。開けられないなんて、有りえない」

 トーラはもう一度、鍵穴に鍵を差し込んだ。

「まさか、これ、マスターキーではないのかしら」

 

「いいえ、それは、紛れもなく、黄金の、マスターキーです」

 背後からの声にトーラとサトウはぎょっとした。

「お母様!」

「あなたに、鍵は、開けられない」

 暗い地下室の廊下に、ギヨン夫人とハンスが立っていた。

秘密の部屋

画像 トーラ

「隠し部屋だ」 サトウは手にしていたランタンを部屋の中にかざした。暗闇に診察台らしきベッドがいくつか浮かび上がった。ほかに何もない空間にポツンポツンと置かれた診察台が不気味だった。「秘薬は、きっとここにあるんだわ。この秘密の部屋のどこかに隠してある」トーラとサトウは部屋の中に足を踏み入れた。

 隠し部屋

 二人は手にしたランタンの灯りだけを頼りに部屋の中を歩いた。診察台をいくつか通り過ぎて部屋の奥まで進んだ時、床に置かれたものが二人の歩みを止めさせた。異様に目を惹く大きな石の箱だった。

 二人はこわごわと近付いた。その形はまるで棺のようだった。

「サトウ、この蓋を開けてみて」

「これは、棺桶じゃないのか。開けるのは、ちょっと」

「こういう中にこそ、隠してあるのよ」

 棺のような箱には、ずしりと重い蓋があった。サトウは蓋をなんとか横にずらしてやっと箱を開けることができた。

「うわあっ」

「きゃあ」

 二人は思わず尻もちをついた。

 箱の中に人の形をしたものが横たわっていた。

「まさか、これは、死体?」

 土気色をした顔は、死後ずいぶん時間が経っていることを表していた。

 サトウの背中からこわごわ箱を覗き込んだトーラはまた別の悲鳴を上げた。

「ひいっ」

 トーラが叫んだ。

「お、お母様」

 トーラは両手で口を覆った。

「そんな、土葬にされたはずなのに」

 横たわっている死体は女性の衣装をまとっていた。

「どうして、こんなところに」

 トーラは嘔吐きそうになりしゃがみこんだ。

「ここを出よう」

 サトウは横にずれていた蓋をなんとか元に戻した。

 トーラとサトウは もつれる足で部屋を出て暗い廊下を全力で走った。

 明るい南棟の居間に辿りつくと、二人はソファに倒れ込んだ。

画像 マンガ隠し部屋

 南棟の居間

 しばらくして落ち着きを取り戻したトーラは言った。

「鍵があった」

 サトウも鍵を目にしていた。死体の胸に置かれた両手に鍵が添えられていた。

「あれは地下室の鍵にちがいない」

「トーラ、こんな目に遭って、まだ鍵のことを言うのか」

「今度こそ秘薬を手に入れてみせる」

「もう秘薬はあきらめたらどうだ。ハンスに継いでもらえばいいじゃないか」

「口出ししないで。この家の秘薬は私のもの」

「トーラ、これ以上秘薬にこだわるなら僕はもう身をひくよ。君はこの家を守るように生まれついている」

「サトウ、逃げようったってそうはいかないわ」

 トーラはサトウを見据えると冷たく言い放った。

「このままあなたを城へ閉じ込めることもできるのよ。ギヨン家の捕縛や鍵は誰にも破れない」

 サトウは言葉を失った。まさかトーラは最初からそのつもりで私を城へ呼んだのか。

 サトウの引きつった顔を見てトーラはニヤリと笑った。

「うそよ。秘薬を手に入れたらすぐにベルリンへ帰りましょう」

 ハンスと母

「えっ、お母様に会いたいかって?」

「あなた、お母様が恋しくてしかたないのでしょう」

 ペガサスで遠出をしようとしていたハンスはトーラに引き止められた。

「ハンス、私、お母様に会ったの」

 驚いて口を開けたままのハンスは、すぐに天使のようなあどけない表情を浮かべて口をとがらせた。

「ずるいよ、僕も会いたいよ」

「大丈夫よ。会わせてあげる。今日、昼食のあと、私の部屋へ来てちょうだい」

画像 マンガハンスとトーラ

「サトウ、今日の午後、もう一度あの隠し部屋へ行くわ」

「トーラ、もうよそう。僕たちが見たものは夢か幻だったんだ」

「そういうわけにはいかない。私はすべてを捨ててあなたとの結婚を選んだ。だけどなにも、捨てる必要はないと気付いたの。私は秘薬を手に入れて、それを持って、あなたの国へ嫁いでいく」

「トーラ、話し合おう。君はやはりこの家を継ぐべきではないのか」

 トーラはサトウを見据えた。その目に冷たい怒りの炎があった。

「私に同じことを言わせないで。あなた、縄か鎖で縛られたいの?」

 サトウは黙り込んだ。

「私に逆らわないほうが身のためよ」

 母との再会

 絵の掛かっている廊下を通る時、ハンスは尻込みした。トーラはハンスを急き立て、無理やり隠し部屋へ連れて行った。

「こんな部屋があるなんて知らなかった」

 ハンスはこわごわ隠し部屋に足を踏み入れた。

 トーラは怯えるハンスを引きずるようにして部屋の奥まで連れてきた。棺のような箱に気付いてハンスはますます怖がった。トーラはハンスを棺の前へ押し出した。

「トーラ、やめて。こわいよ」

「サトウ、棺の蓋を開けて」

 言われるままにサトウは重い蓋をずらした。死体は前と同じまま横たわっていた。

 ハンスはサトウの肩につかまりながら棺の中へそっと目を向けた。

「お母様だ」

 ハンスは棺の縁をつかんで覗き込んだ。

「ああ、お母様、会いたかった」

 ハンスは怖がることもなく死体の顔に手を伸ばした。

 その手が顔に触れた途端、死体が微かに震えたように見えた。

 そして死体の目がゆっくりと開かれたのだ。

「きゃあ~」

「うわぁぁ」

 トーラとサトウは顔を引きつらせて後ずさった。

 ハンスはビクッと震えて怯えた表情を見せたが、すぐにまた棺に顔を近付けた。

「お母様、ねえ、生きているの?」

「ハンス、その鍵を取りなさい、早く」

 トーラが叫んだ。

 ハンスは怖がることもなく死体の胸に置かれた鍵を持ち上げようとした。

 するとしわがれた声が小さく響いた。

「ハ、ン、ス」

 死体の唇が動いたのだ。

「ひぃっ」

 ハンスは驚いて鍵から手を離した。トーラはサトウにしがみついた。

 そして棺のなかでは、死体の手がそうっと持ち上がり、何かをつかもうとした。

「逃げよう」

 サトウはトーラの腕をつかんで走り出した。

「待って、置いて行かないで」

 ハンスはあわてて二人の後を追った。三人は足をもつれさせながら部屋の扉を開けて廊下へと走り出た。

ハンスの帰城

画像 ハンス

トーラは執事に馬を手配させた。だが途中の村にはすぐに城へ向かえる馬はいなかった。「サトウ、まだ帰れそうにない。馬で行くのが一番早いのだけど、今、使えるのは私の愛馬ノアだけ。二人乗りじゃこの山を下るのは難しい」

 診療所

 サトウはトーラに案内されて広い城内を見て歩いた。家具や調度品はどれも古い年代の高価なものばかりだった。建物は東西南北に別れてそれぞれ南棟、東棟、などと呼ばれていた。診療所は邸宅と離れた別棟にあった。邸宅の玄関とは別に門と玄関があり患者や診療所に用のある者はそちらから出入りするようだった。その診療所の玄関を入ると広々とした待合室があった。

「立派な診療所だ」

「貴族やお金持ちがお忍びで診察を受けに来るのよ。もちろん近くの村の人たちもやってくる。この辺にはほかに治療できるところがないから」

 この大事な診療所を継がない、トーラと結婚するとはそういうことだ。サトウは立派な建物や設備を見るにつれ、トーラをここから連れ去ることに大きなためらいを覚えていた。

「サトウ、ここは弟に継いでもらう」

 サトウの迷いを察したかのようにトーラは言った。

「サトウ、私にとってこの診療所はとても大切なもの。ここの伝統と村人たちの医療を引き受けることが私の生きる道、小さい頃から疑うことなくそう思って育ってきた。父もそのつもりで育ててきた。医学校へも行かせてくれた」

「トーラ、知っているとも。君はずっと、診療所を継ぐためにがんばってきた。君はギヨン家の誇りに違いない。君を日本へ連れて行くのをためらってしまうよ」

 トーラは目を見開いてサトウの顔を見返した。

「いい?サトウ。私はこれだけのものを捨てる覚悟をした。あなたはもう逃げることはできない」

 トーラはガラスのような瞳でサトウを見据えた。燃えるような情熱をたぎらせたその瞳はサトウをたじろがせた。あれほど愛おしかったトーラの強い情熱。それを愛していた自分の心に小さな暗い影がよぎったような気がした。

 トーラの弟

 白馬にまたがりギヨン城へ向かう少年の姿があった。

 玄関前で馬を下りる若者をサトウは客室の窓から目で追った。黄金色の髪をした美しい少年だった。あれは弟のハンスに違いない。

「トーラ、今、帰ったよ」

 ハンスはトーラのもとへ駆け寄って頬にキスをした。

「弟のハンスよ。学校の寮から帰ってきたの」

 はにかみながら笑って挨拶する少年は天使のようだった。サトウはハンスの笑顔に見惚れてしまった。

「ハンス、夏の間はここにいられるのでしょう」

「姉さんの婚約者に会いに来ただけだよ」

「お父様に反対されたわ。しばらくここにいてちょうだい。ペガサスが必要なの。あの馬に乗って私とサトウはベルリンへ戻るから」

「僕はどうするんだよ」

「ペガサスは途中の村に置いていくわ。村人はあなたの馬だってわかって、すぐに城へ戻してくれるでしょう」

「いやだよ。ペガサスが姉さんを嫌っているの、わからないのかい」

「サトウが乗るのよ。私はノアに乗っていく」

「ノアに二人で乗ればいいじゃないか」

画像 マンガハンスとトーラ

 ハンスの仕事

 サトウが南棟の広い部屋の前を通るとハンスが何かの作業に熱中していた。サトウは室内に入ってハンスの手元を見た。美しく輝くばかりの金色の縄で何かを編んでいた。

「なんてきれいな縄なんだ」

「ああ、サトウ。この細い縄を扱うのは大変なんだよ」

「何を作っているんだい」

「うーん、言っていいのかな。トーラはどこまで話しているんだろう」

 金色の縄を手にして首をかしげるハンスはまさに天使そのものだった。金色の縄と呼応するようにハンスの金髪がまぶしく輝いていた。

「うちには医術だけじゃなくて、いろんなものが受け継がれているんだ」

 ハンスは縄を編みながら話し出した。

「これもその一つ。うちは代々の縄使い。捕縛術を受け継いでいるんだ。縄とか鍵に関することがたくさん伝承されている」

「ああ、私の国でも聞いたことがある。罪人を繋ぐ時とか専門のやり方があるのだろう」

「そういう時も使うだろうけど、錠前のこととか鍵開けの術とかいろいろあって・・・とにかく大変なんだ」

 ハンスは手にしていた縄を投げ出すようにして近くの椅子に放った。

「この縄で作らなくちゃいけないものが決まっているんだ」

「決まっている?」

「僕とトーラの代は、縄梯子さ」

「えっ、縄梯子を作ることが決まっている?それは誰が決めたんだい」

「先祖代々の言い伝え。それぞれの代で必要なものが決められているんだ。実際、作った縄がその通りに使われた。例えば太い丈夫な縄を作るよう決められていた代には、大嵐が山を襲って、その太い縄で城を守ることができた。別の代には縄の先端に輪を作った。村の馬たちが湿地にはまった時、その縄のおかげでなんとか救い出すことができたんだ」

「そういう縄はいつでも必要だろう。どの代でもいつも用意しておけばいいんじゃないのかい」

「この金色の縄が秘伝なんだ。普通の縄じゃだめだったらしいよ。切れたりほどけたりして。とにかく普通のやり方じゃ助からないような事態の時にこの家の縄が使えるんだ。何か合図があるから使う時がわかるんだって。その非常時に使ったあとは、自然にほどけて縄の役目が終わるんだって」

「すごい話だね、その、にわかには信じられないような」

「この家は信じられないことばかりさ。小さい頃、おばあさまが子守唄代りに、この家の叙事詩を歌ってくれた。代々のそれはそれは不思議な話。続きが知りたくて夢中になって、かえって眠れなくなった」

 ハンスは天井を見上げて微笑んだ。

「楽しかったなあ。僕もいつかは縄を使って大活劇をやるんだ、この家の伝統を受け継ぐんだ。そう思って、縄や鍵のこと、一日でも早く習得しなくちゃ、って」

 ハンスの嬉しそうな顔を見てサトウは心が和んだ。

 サトウが見つめているのに気付いて我にかえったハンスは照れ臭そうに笑った。

「余計な話をするなって、トーラに怒られちゃうな」

 そしてまた縄を手に取ると真剣な表情で編み始めた。たしかにそれは縄梯子の形を成していた。ハンスは器用に手先を動かしたが、指先で細い縄が形を作るのはほんの何寸かだけで、編み進めるのは大変そうだった。

 サトウはハンスの真面目な作業ぶりに感心した。

「トーラも僕も、家に戻った時はなるべく編み進めているよ。家から離れている時はほかの捕縛術や縄抜けや、解錠の練習とかもするし」

画像 ハンスとサトウ

 サトウはハンスを見直した。苦労知らずのやんちゃな御曹司に思えたハンスだが、トーラの学業への熱心さを考えれば意外なことではなかった。ギヨン家には勤勉さという誇るべき気質が息づいているのだ。

「これは投げ出すわけにはいかないんだ。サトウは、投げ出すなら今のうちだよ。さっさとこの家から逃げ出したほうがいいと思うよ」

 ハンスは縄に熱中し始めてサトウへはもう見向きもしなかった。

退院の日

画像 フミ

サキの病室の窓から百日紅が見えた。赤い花。この一年いろいろなことがあった。三軒坂校舎の火災。逃げ遅れて救助されたこと。菊坂の新しい校舎。そして骨折、入院。幸い2週間ほどで退院できる見込みで9月にはまた美術学校へ通えそうだ。

 病室

「具合はいかがですか」

 ドアが開いて担当の先生が入ってきた。先生の後にもう一人、白衣を着た長身の男性が立っていた。

「院長先生の回診です」

 えっ、あなたは。そこに立っていたのは、御茶ノ水天神で会った紳士だった。

「こんにちは。また会いましたね」

「院長先生、お知り合いでしたか」

 担当の先生が驚くと院長先生はサキに微笑んだ。

「あの御札、今も肌身離さず持っていますよ」

「院長先生だったのですか。ということは、美術学校の校長先生?」

「その通り。本業が忙しくて、美術学校のほうにはほとんど顔を出せませんが」

「じゃあの時、落成式って言ってたのは、美術学校の新校舎のこと」

「おかげで無事に建造されました」

「そうだったんですね。でも私ったら、こんな姿で恥ずかしい。車にぶつかっちゃって」

「ちゃんと静養すればすぐよくなりますから。困ったことがあったら担当の先生に相談するのですよ」

 そう言うと院長先生は別のベッドへ移動して端の患者から順番に回診を始めた。

 退院の前日

 サキに面会した帰り、フミは寄宿舎へと急いだ。サキは明日退院なので顔を見るだけのつもりだったのがつい話し込んでしまい、面会時間を過ぎて追い出されてしまった。夕刻でもまだ通りは明るく肌を焦がす暑さに汗が噴き出そうだった。木蔭を選んで歩いていると歩道の向こう側に大きな荷物を抱えて歩いている若者が目に入った。あれはキャンバスじゃないかしら、8号サイズかな。

「あっ」

 フミは目を見張った。左手の肘に傷がある。あの人はいつかの人、あの時、怖い目をしていた、あの人。もう関わりたくないと思っていた。

 フミは立ち止まって若者の姿を目で追った。時間が経ったせいでフミは少し落ち着いて考えた。あの人は傷のことを人から言われて気を悪くしただけかもしれない。私が無神経に傷のことを言ったのがいけなかったんだ。フミは、あの後、自分で似顔絵を描き直してみて、男性の善良さに触れたような気がしていた。授業中に関係ないデッサンを描いて山本先生に怒られてしまったっけ。フミはあの時のあせった気持ちを思い出して苦笑いした。あの人はサキさんが捜している人に違いない。やっぱりもう一度、話しかけてみようかな。

 フミは若者のほうへ行こうとしたが車の往来が途切れず近寄れなかった。反対の歩道から後を追うと、若者は天祥堂医院へと向かい玄関から中へ入っていった。

 お医者様かしら、医学生じゃなかったのかしら。

 追いかけて事情を話さなくちゃ。サキさんきっと喜んでくれる。しかし天祥堂医院に入るのはためらわれた。面会時間も過ぎているし、受診でもないのにウロウロしていたら不審に思われてしまう。

「行くしかない。サキさんの退院祝いよ」

 意を決してフミは足を踏み出した。立派な洋風建築の医院の玄関を入り、受付の人達や廊下の看護師さん達と顔を合わせないようにして、フミはそっと辺りを見回した。あ、いた、奥の階段を上ろうとしている。

 フミは急いで廊下の奥まで行き、階段を上った。

 廊下の角を曲がると奥のドアが閉まるのが見えた。慌ててドアノブを掴んで声をかけた。

「すみません、どなたかいますか」

 退院の日

 大正12年9月1日、サキの退院の日だった。

 退院の手続きを済ませるとお世話になった方々に挨拶してから廊下へ出た。サキはメグミを待っていた。遅いな、メグミさん。

  廊下の待合室に腰かけていると、メグミが玄関から入ってくるのが見えた。

「メグミさん、ここよ」

「サキさん、遅くなってごめんなさい」

「迎えにきてくれてありがとう」

「サキさん、ちょっとこちらへ」

 メグミはサキを廊下の隅へ連れていった。

「サキさん、実はね、昨日からフミさんがいないの」

「フミさんが?いないってどういうこと?」

「昨日、寄宿舎へ帰ってこなかったの」

「ええっ、帰ってこない?」

「昨夜、先生方や皆で手分けして寄宿舎のなかを探したのだけれど、見つからなかった」

「フミさん、昨日お見舞いに来たけど」

「ええ、天祥堂医院に行くって私も聞いたわ」

「でも5時すぎに帰った」

「今朝、一応こちらの医院へ連絡はしたみたい。サキさんの病室にいるかもしれないからって」

「5時すぎに別れたあとは会っていないよ」

「わかってる。大事にならないよう内々に捜しているのよ。若い女性だから変な噂がたつのは良くないからって」

「どうしよう。昨日、てっきり寄宿舎に帰ったと思ってた。寄り道するなんて言ってなかったし」

「大丈夫。きっとじきに見つかるわ」

 

 玄関へ向かう足を止めてメグミが言った。

「サキさん、私、心配だから、医院の中を捜してみる」

「医院の人達に任せたら?かえって邪魔になるよ」

「だけど、このまま帰れないわ。ここまで来ているのに捜さないなんて嫌よ」

「わかった。じゃあ私も行く。一緒に捜しましょう」

「サキさんは折角の退院だから、どうぞ先に帰って」

「迎えに来てくれたのに、先に帰ってはないでしょう」

「そうだった、ごめんなさい」

画像 マンガ退院の日

 二人は1階の診察室や検査室の周りを歩いてみた。廊下は診察待ちの人であふれかえっていた。

「診察室は入る訳にはいかないわ」

「そうよね。さて、どうしようか。2階へ行ってみる?」

「2階はお医者さんや看護婦さんの場所よ。医局とか教授室とかがあって、普段、患者は行かないわ」

「ふーん。私、ちょっと行ってみる」

「おやめなさいよ。メグミさんが歩いていたら目立つんだから」

「サキさんはここで待っていて。あなたとはぐれて探していたことにするから」

 そう言うとメグミはすたすたと階段を上って行ってしまった。

 

 サキは仕方なく廊下の椅子に腰かけた。

 昨日、看護師さんに面会時間が過ぎていると言われて、フミはあわてて帰って行った。

5時すぎていたけれど、外はまだ明るくて、まだ暑かった。寄宿舎まで歩いて10分もかからない。大通りを通れば危険な場所はないはず。一体なぜ寄宿舎へ戻っていないのだろう。

 サキは結論の出ないまま同じことを考え続けていた。

「あ、もうこんな時間」

 いつの間にか時間が経っていた。メグミさん、どこまで行ったんだろ。

 サキは立ち上がって、階段の下から2階の様子を窺った。

「行ってみるしかないわね」

 サキは階段を上った。

 2階の廊下には誰もいなかった。午前の診察で1階は混み合っているが、2階は人気もなく静かだった。

 廊下に沿って歩いてみる。誰かに見つかったらどうしよう。サキは不安になった。メグミさん、何処にいるの。

「何をしているのです」

「ひっ」

 背後から声を掛けられてサキは驚いた。

「ごめんなさい・・」

 顔を上げると山本先生が立っていた。

 ああ良かった。知らない人だったら大変だった。

「こんなところで何をしているのです」

「あの、メグミさんが、2階へ行ったきり戻ってこなくて」

「2階へ?用もなく勝手に2階へ行ってはいけませんよ」

「すみません。あの、その、はぐれてしまって」

「こんなところにいたら不審者と間違われてしまいます」

「はい、すみません」

「今日は退院だと聞いています。あなたは寄宿舎へもどって休みなさい」

「でも、メグミさんが戻って来ないし、それに」

「私が探してみます」

「山本先生。あの、フミさんがいなくなったって」

「フミさんのことも大人にまかせて、さあ、お帰りなさい」

「はい、わかりました」

 サキは踵を返し、階段へ向かった。振り返ると、山本先生は2階の奥のほうに向かって廊下を急いでいた。