トーラは執事に馬を手配させた。だが途中の村にはすぐに城へ向かえる馬はいなかった。「サトウ、まだ帰れそうにない。馬で行くのが一番早いのだけど、今、使えるのは私の愛馬ノアだけ。二人乗りじゃこの山を下るのは難しい」
診療所
サトウはトーラに案内されて広い城内を見て歩いた。家具や調度品はどれも古い年代の高価なものばかりだった。建物は東西南北に別れてそれぞれ南棟、東棟、などと呼ばれていた。診療所は邸宅と離れた別棟にあった。邸宅の玄関とは別に門と玄関があり患者や診療所に用のある者はそちらから出入りするようだった。その診療所の玄関を入ると広々とした待合室があった。
「立派な診療所だ」
「貴族やお金持ちがお忍びで診察を受けに来るのよ。もちろん近くの村の人たちもやってくる。この辺にはほかに治療できるところがないから」
この大事な診療所を継がない、トーラと結婚するとはそういうことだ。サトウは立派な建物や設備を見るにつれ、トーラをここから連れ去ることに大きなためらいを覚えていた。
「サトウ、ここは弟に継いでもらう」
サトウの迷いを察したかのようにトーラは言った。
「サトウ、私にとってこの診療所はとても大切なもの。ここの伝統と村人たちの医療を引き受けることが私の生きる道、小さい頃から疑うことなくそう思って育ってきた。父もそのつもりで育ててきた。医学校へも行かせてくれた」
「トーラ、知っているとも。君はずっと、診療所を継ぐためにがんばってきた。君はギヨン家の誇りに違いない。君を日本へ連れて行くのをためらってしまうよ」
トーラは目を見開いてサトウの顔を見返した。
「いい?サトウ。私はこれだけのものを捨てる覚悟をした。あなたはもう逃げることはできない」
トーラはガラスのような瞳でサトウを見据えた。燃えるような情熱をたぎらせたその瞳はサトウをたじろがせた。あれほど愛おしかったトーラの強い情熱。それを愛していた自分の心に小さな暗い影がよぎったような気がした。
トーラの弟
白馬にまたがりギヨン城へ向かう少年の姿があった。
玄関前で馬を下りる若者をサトウは客室の窓から目で追った。黄金色の髪をした美しい少年だった。あれは弟のハンスに違いない。
「トーラ、今、帰ったよ」
ハンスはトーラのもとへ駆け寄って頬にキスをした。
「弟のハンスよ。学校の寮から帰ってきたの」
はにかみながら笑って挨拶する少年は天使のようだった。サトウはハンスの笑顔に見惚れてしまった。
「ハンス、夏の間はここにいられるのでしょう」
「姉さんの婚約者に会いに来ただけだよ」
「お父様に反対されたわ。しばらくここにいてちょうだい。ペガサスが必要なの。あの馬に乗って私とサトウはベルリンへ戻るから」
「僕はどうするんだよ」
「ペガサスは途中の村に置いていくわ。村人はあなたの馬だってわかって、すぐに城へ戻してくれるでしょう」
「いやだよ。ペガサスが姉さんを嫌っているの、わからないのかい」
「サトウが乗るのよ。私はノアに乗っていく」
「ノアに二人で乗ればいいじゃないか」
ハンスの仕事
サトウが南棟の広い部屋の前を通るとハンスが何かの作業に熱中していた。サトウは室内に入ってハンスの手元を見た。美しく輝くばかりの金色の縄で何かを編んでいた。
「なんてきれいな縄なんだ」
「ああ、サトウ。この細い縄を扱うのは大変なんだよ」
「何を作っているんだい」
「うーん、言っていいのかな。トーラはどこまで話しているんだろう」
金色の縄を手にして首をかしげるハンスはまさに天使そのものだった。金色の縄と呼応するようにハンスの金髪がまぶしく輝いていた。
「うちには医術だけじゃなくて、いろんなものが受け継がれているんだ」
ハンスは縄を編みながら話し出した。
「これもその一つ。うちは代々の縄使い。捕縛術を受け継いでいるんだ。縄とか鍵に関することがたくさん伝承されている」
「ああ、私の国でも聞いたことがある。罪人を繋ぐ時とか専門のやり方があるのだろう」
「そういう時も使うだろうけど、錠前のこととか鍵開けの術とかいろいろあって・・・とにかく大変なんだ」
ハンスは手にしていた縄を投げ出すようにして近くの椅子に放った。
「この縄で作らなくちゃいけないものが決まっているんだ」
「決まっている?」
「僕とトーラの代は、縄梯子さ」
「えっ、縄梯子を作ることが決まっている?それは誰が決めたんだい」
「先祖代々の言い伝え。それぞれの代で必要なものが決められているんだ。実際、作った縄がその通りに使われた。例えば太い丈夫な縄を作るよう決められていた代には、大嵐が山を襲って、その太い縄で城を守ることができた。別の代には縄の先端に輪を作った。村の馬たちが湿地にはまった時、その縄のおかげでなんとか救い出すことができたんだ」
「そういう縄はいつでも必要だろう。どの代でもいつも用意しておけばいいんじゃないのかい」
「この金色の縄が秘伝なんだ。普通の縄じゃだめだったらしいよ。切れたりほどけたりして。とにかく普通のやり方じゃ助からないような事態の時にこの家の縄が使えるんだ。何か合図があるから使う時がわかるんだって。その非常時に使ったあとは、自然にほどけて縄の役目が終わるんだって」
「すごい話だね、その、にわかには信じられないような」
「この家は信じられないことばかりさ。小さい頃、おばあさまが子守唄代りに、この家の叙事詩を歌ってくれた。代々のそれはそれは不思議な話。続きが知りたくて夢中になって、かえって眠れなくなった」
ハンスは天井を見上げて微笑んだ。
「楽しかったなあ。僕もいつかは縄を使って大活劇をやるんだ、この家の伝統を受け継ぐんだ。そう思って、縄や鍵のこと、一日でも早く習得しなくちゃ、って」
ハンスの嬉しそうな顔を見てサトウは心が和んだ。
サトウが見つめているのに気付いて我にかえったハンスは照れ臭そうに笑った。
「余計な話をするなって、トーラに怒られちゃうな」
そしてまた縄を手に取ると真剣な表情で編み始めた。たしかにそれは縄梯子の形を成していた。ハンスは器用に手先を動かしたが、指先で細い縄が形を作るのはほんの何寸かだけで、編み進めるのは大変そうだった。
サトウはハンスの真面目な作業ぶりに感心した。
「トーラも僕も、家に戻った時はなるべく編み進めているよ。家から離れている時はほかの捕縛術や縄抜けや、解錠の練習とかもするし」
サトウはハンスを見直した。苦労知らずのやんちゃな御曹司に思えたハンスだが、トーラの学業への熱心さを考えれば意外なことではなかった。ギヨン家には勤勉さという誇るべき気質が息づいているのだ。
「これは投げ出すわけにはいかないんだ。サトウは、投げ出すなら今のうちだよ。さっさとこの家から逃げ出したほうがいいと思うよ」
ハンスは縄に熱中し始めてサトウへはもう見向きもしなかった。