物語だんだん

だんだん物語となるべし段の談

黄金の鍵

画像 外科医サトウ

ハンスは燭台を手に暗い廊下を進んだ。奥の壁に掛けられた絵の前で立ち止るとうつむいた。これまでこの絵をちゃんと見たことがなかった。ハンスは意を決して顔を上げた。「ああっ」描かれている女性はハンスの祖母だった。祖母はハンスが小さい頃に亡くなった。ハンスがいたずらをする度にいつもかばってくれた祖母だった。その祖母が若く美しい姿で絵の中にいた。祖母がハンスを見て笑ったような気がした。ハンスはすぐに目をそむけた。目が合うと絵の中に吸い込まれる。幼い頃から聞かされた言い伝えがハンスの頭に叩き込まれていた。

 トーラとサトウ

 トーラとサトウは隠し部屋へと向かった。サトウはトーラに請われてまたここまで来たが、もうこれ以上トーラに振り回されたくない、これを最後に別れを告げよう、内心そう決意していた。

 廊下を進むとサトウは立ち止まった。

「絵がない」

「えっ」

 トーラも壁を見た。前に来たときは確かに掛けられていた絵が、まるでたった今、誰かに持ち去られたかのようになくなっていた。

「いったい誰が」

「お父様かペーターかしら。ここに来たことがばれたのかも」

 二人は顔を見合わせて佇んだ。

「行きましょう。考えていたって仕方ない」

 トーラに促されてサトウは隠し部屋の扉を開けた。

 

 トーラとサトウは奥へと進んだ。床に置かれた棺の前に来るとトーラは首を傾げた。

「サトウ、この棺の蓋、閉めたかしら」

「どうだったろう。閉めずにあわてて逃げた気がする」

「棺を開けてみましょう」

 トーラに促され、サトウは重い蓋をずらして床に置いた。

「ああっ」

「いない」

 棺はもぬけの殻だった。前に来た時には横たわっていた死体が消えていた。

 二人はしばらく空の棺を見つめていたが、やがてサトウは重い蓋を棺に戻した。

 サトウは心を決めた。もうベルリンへ戻ろう。これ以上この城にいることはできない。

 トーラとハンス

 ハンスは誰もいないのを見計らって、地下室へ続く階段を降りた。

一番奥の倉庫の前まで来ると、手にしていた鍵を取りだした。大きくて古い鍵だった。錠前に挿すと鍵はぴったりと収まった。ハンスは鍵を回した。

 しかし鍵は開かなかった。解錠できなかった。

「何をしているの」

 鍵と格闘していたハンスはギョッとして顔をあげた。

「トーラ、どうしてここに」

 ハンスは逃げ出そうと地下室の通路を駈け出した。しかし、トーラとサトウに行く手を阻まれて階段の手前で座り込んだ。

「手にしているものを見せなさい」

「いやだ」

「サトウ、ハンスが持っているものを取り上げて」

 しかしサトウは動かなかった。

「トーラ、ハンスの話を聞いてみよう」

「サトウ、私に逆らうつもり?」

「ハンス、何があったんだ」

「サトウ、ぼくの味方になって」

「僕は君の敵じゃないよ」

画像 マンガ地下室のハンス

 三人は東棟の奥の客間へ移った。

 ソファに座ったハンスを囲い込むようにして両脇にトーラとサトウが腰かけた。

「さあ、持っているものを見せて」

 ハンスはトーラの前に両手を出した。その手に握られていたのは、古びて鈍い光を放っている鍵、黄金でできた鍵だった。

「これは、この鍵は」

 トーラは鍵を受取るとしげしげと眺めた。

「どうやって手に入れたの?」

「お母様が僕のところにやってきて僕にくれたんだ」

「お母様って、あの棺に入っていた?」

「そうだよ。棺から起きだして僕の部屋まで歩いてきたんだ」

 サトウは背筋が凍った。トーラも顔をこわばらせた。

「棺の蓋が開いたから、自分で出て歩いてきたんだって」

「本当に、お母様だったの?」

「そうだよ。間違えるわけないじゃん」

「お母様がこの鍵を渡してくれたの?」

「うん、それから廊下の絵を取ってきてほしいって」

「お母様の頼みだから、廊下から絵を取ってきて地下室へも行ったのね。あんなに恐がりのくせに」

「お母様は暗い所しか歩けないって言っていた。それにたくさん歩けないって」

「ハンス、あなた恐くないの?」

「だってお母様だよ。恐いわけないよ」

「あなたのその能天気なところ、今回は役に立ったわ」

「なんだよ。役に立つもなにも、トーラには関係ないよ。ぼくとお母様の約束なんだから」

「棺の蓋を閉めたのも君なのか?」

「うん、お母様がまた棺で眠ってしまわないよう蓋をしたんだ」

「ハンス、お母様はあの絵と地下室の秘薬をどうするつもりなの?」

「知らない」

 ハンスは顔をそむけた。

「言いたくないならいいのよ。この鍵、この黄金の鍵があれば何でも手に入る」

 トーラは掌にのせた鍵を愛おしそうに撫でた。

「ハンス。あなたも知っているでしょう。うちの家宝。錠前術のマイスターだけが使える万能の鍵がある、それは黄金でできている」

「お母様は僕に鍵を渡すって。僕が受け継ぐんだって」

「いいえ、あなたは受け継げない。解錠できなかったのなら、あなたはマイスターではないのよ」

「そんなことない。僕、錠前術はマスターしている」

「でも鍵は開けられなかった」

「マイスターになるのは僕だよ。もう一度やってみる」

 ハンスはトーラの手から鍵を奪おうとしたがトーラは渡さなかった。

「私がやる」

「できるわけない。鍵に関しては、僕のほうがトーラより何倍も優秀なんだから」

「それは鍵を使ってみればわかることだわ」

 トーラは黄金の鍵を胸元に仕舞い込んだ。

「ねえ、返してくれよ。お母様は僕にくれたんだから」

「地下室へ行くわよ。ハンス、ついてらっしゃい」

「トーラの思い通りになんかならないよ」

 ハンスはするりとソファから滑りおり、軽い身のこなしで部屋を飛び出していった。

画像 マンガ東棟の客間

 トーラはサトウを従えて地下室の階段を下りた。奥の扉の前まで来ると、手にしていた黄金の鍵を鍵穴へ差し込んだ。

 鍵は開かなかった。

 トーラは鍵を引き抜いて差し直したり回したりしたが解錠できなかった。

「そんなはずないわ。ハンスが無理なら、私が、できるはず」

「僕がやってみようか」

「ばかなこと言わないで。サトウにできるはずないでしょう」

 トーラの剣幕に押されてサトウは伸ばしかけた手を引っ込めた。

「私かハンス、どちらかが開けなかったら、この家の伝統は途絶えてしまう。開けられないなんて、有りえない」

 トーラはもう一度、鍵穴に鍵を差し込んだ。

「まさか、これ、マスターキーではないのかしら」

 

「いいえ、それは、紛れもなく、黄金の、マスターキーです」

 背後からの声にトーラとサトウはぎょっとした。

「お母様!」

「あなたに、鍵は、開けられない」

 暗い地下室の廊下に、ギヨン夫人とハンスが立っていた。

秘密の部屋

画像 トーラ

「隠し部屋だ」 サトウは手にしていたランタンを部屋の中にかざした。暗闇に診察台らしきベッドがいくつか浮かび上がった。ほかに何もない空間にポツンポツンと置かれた診察台が不気味だった。「秘薬は、きっとここにあるんだわ。この秘密の部屋のどこかに隠してある」トーラとサトウは部屋の中に足を踏み入れた。

 隠し部屋

 二人は手にしたランタンの灯りだけを頼りに部屋の中を歩いた。診察台をいくつか通り過ぎて部屋の奥まで進んだ時、床に置かれたものが二人の歩みを止めさせた。異様に目を惹く大きな石の箱だった。

 二人はこわごわと近付いた。その形はまるで棺のようだった。

「サトウ、この蓋を開けてみて」

「これは、棺桶じゃないのか。開けるのは、ちょっと」

「こういう中にこそ、隠してあるのよ」

 棺のような箱には、ずしりと重い蓋があった。サトウは蓋をなんとか横にずらしてやっと箱を開けることができた。

「うわあっ」

「きゃあ」

 二人は思わず尻もちをついた。

 箱の中に人の形をしたものが横たわっていた。

「まさか、これは、死体?」

 土気色をした顔は、死後ずいぶん時間が経っていることを表していた。

 サトウの背中からこわごわ箱を覗き込んだトーラはまた別の悲鳴を上げた。

「ひいっ」

 トーラが叫んだ。

「お、お母様」

 トーラは両手で口を覆った。

「そんな、土葬にされたはずなのに」

 横たわっている死体は女性の衣装をまとっていた。

「どうして、こんなところに」

 トーラは嘔吐きそうになりしゃがみこんだ。

「ここを出よう」

 サトウは横にずれていた蓋をなんとか元に戻した。

 トーラとサトウは もつれる足で部屋を出て暗い廊下を全力で走った。

 明るい南棟の居間に辿りつくと、二人はソファに倒れ込んだ。

画像 マンガ隠し部屋

 南棟の居間

 しばらくして落ち着きを取り戻したトーラは言った。

「鍵があった」

 サトウも鍵を目にしていた。死体の胸に置かれた両手に鍵が添えられていた。

「あれは地下室の鍵にちがいない」

「トーラ、こんな目に遭って、まだ鍵のことを言うのか」

「今度こそ秘薬を手に入れてみせる」

「もう秘薬はあきらめたらどうだ。ハンスに継いでもらえばいいじゃないか」

「口出ししないで。この家の秘薬は私のもの」

「トーラ、これ以上秘薬にこだわるなら僕はもう身をひくよ。君はこの家を守るように生まれついている」

「サトウ、逃げようったってそうはいかないわ」

 トーラはサトウを見据えると冷たく言い放った。

「このままあなたを城へ閉じ込めることもできるのよ。ギヨン家の捕縛や鍵は誰にも破れない」

 サトウは言葉を失った。まさかトーラは最初からそのつもりで私を城へ呼んだのか。

 サトウの引きつった顔を見てトーラはニヤリと笑った。

「うそよ。秘薬を手に入れたらすぐにベルリンへ帰りましょう」

 ハンスと母

「えっ、お母様に会いたいかって?」

「あなた、お母様が恋しくてしかたないのでしょう」

 ペガサスで遠出をしようとしていたハンスはトーラに引き止められた。

「ハンス、私、お母様に会ったの」

 驚いて口を開けたままのハンスは、すぐに天使のようなあどけない表情を浮かべて口をとがらせた。

「ずるいよ、僕も会いたいよ」

「大丈夫よ。会わせてあげる。今日、昼食のあと、私の部屋へ来てちょうだい」

画像 マンガハンスとトーラ

「サトウ、今日の午後、もう一度あの隠し部屋へ行くわ」

「トーラ、もうよそう。僕たちが見たものは夢か幻だったんだ」

「そういうわけにはいかない。私はすべてを捨ててあなたとの結婚を選んだ。だけどなにも、捨てる必要はないと気付いたの。私は秘薬を手に入れて、それを持って、あなたの国へ嫁いでいく」

「トーラ、話し合おう。君はやはりこの家を継ぐべきではないのか」

 トーラはサトウを見据えた。その目に冷たい怒りの炎があった。

「私に同じことを言わせないで。あなた、縄か鎖で縛られたいの?」

 サトウは黙り込んだ。

「私に逆らわないほうが身のためよ」

 母との再会

 絵の掛かっている廊下を通る時、ハンスは尻込みした。トーラはハンスを急き立て、無理やり隠し部屋へ連れて行った。

「こんな部屋があるなんて知らなかった」

 ハンスはこわごわ隠し部屋に足を踏み入れた。

 トーラは怯えるハンスを引きずるようにして部屋の奥まで連れてきた。棺のような箱に気付いてハンスはますます怖がった。トーラはハンスを棺の前へ押し出した。

「トーラ、やめて。こわいよ」

「サトウ、棺の蓋を開けて」

 言われるままにサトウは重い蓋をずらした。死体は前と同じまま横たわっていた。

 ハンスはサトウの肩につかまりながら棺の中へそっと目を向けた。

「お母様だ」

 ハンスは棺の縁をつかんで覗き込んだ。

「ああ、お母様、会いたかった」

 ハンスは怖がることもなく死体の顔に手を伸ばした。

 その手が顔に触れた途端、死体が微かに震えたように見えた。

 そして死体の目がゆっくりと開かれたのだ。

「きゃあ~」

「うわぁぁ」

 トーラとサトウは顔を引きつらせて後ずさった。

 ハンスはビクッと震えて怯えた表情を見せたが、すぐにまた棺に顔を近付けた。

「お母様、ねえ、生きているの?」

「ハンス、その鍵を取りなさい、早く」

 トーラが叫んだ。

 ハンスは怖がることもなく死体の胸に置かれた鍵を持ち上げようとした。

 するとしわがれた声が小さく響いた。

「ハ、ン、ス」

 死体の唇が動いたのだ。

「ひぃっ」

 ハンスは驚いて鍵から手を離した。トーラはサトウにしがみついた。

 そして棺のなかでは、死体の手がそうっと持ち上がり、何かをつかもうとした。

「逃げよう」

 サトウはトーラの腕をつかんで走り出した。

「待って、置いて行かないで」

 ハンスはあわてて二人の後を追った。三人は足をもつれさせながら部屋の扉を開けて廊下へと走り出た。

ハンスの帰城

画像 ハンス

トーラは執事に馬を手配させた。だが途中の村にはすぐに城へ向かえる馬はいなかった。「サトウ、まだ帰れそうにない。馬で行くのが一番早いのだけど、今、使えるのは私の愛馬ノアだけ。二人乗りじゃこの山を下るのは難しい」

 診療所

 サトウはトーラに案内されて広い城内を見て歩いた。家具や調度品はどれも古い年代の高価なものばかりだった。建物は東西南北に別れてそれぞれ南棟、東棟、などと呼ばれていた。診療所は邸宅と離れた別棟にあった。邸宅の玄関とは別に門と玄関があり患者や診療所に用のある者はそちらから出入りするようだった。その診療所の玄関を入ると広々とした待合室があった。

「立派な診療所だ」

「貴族やお金持ちがお忍びで診察を受けに来るのよ。もちろん近くの村の人たちもやってくる。この辺にはほかに治療できるところがないから」

 この大事な診療所を継がない、トーラと結婚するとはそういうことだ。サトウは立派な建物や設備を見るにつれ、トーラをここから連れ去ることに大きなためらいを覚えていた。

「サトウ、ここは弟に継いでもらう」

 サトウの迷いを察したかのようにトーラは言った。

「サトウ、私にとってこの診療所はとても大切なもの。ここの伝統と村人たちの医療を引き受けることが私の生きる道、小さい頃から疑うことなくそう思って育ってきた。父もそのつもりで育ててきた。医学校へも行かせてくれた」

「トーラ、知っているとも。君はずっと、診療所を継ぐためにがんばってきた。君はギヨン家の誇りに違いない。君を日本へ連れて行くのをためらってしまうよ」

 トーラは目を見開いてサトウの顔を見返した。

「いい?サトウ。私はこれだけのものを捨てる覚悟をした。あなたはもう逃げることはできない」

 トーラはガラスのような瞳でサトウを見据えた。燃えるような情熱をたぎらせたその瞳はサトウをたじろがせた。あれほど愛おしかったトーラの強い情熱。それを愛していた自分の心に小さな暗い影がよぎったような気がした。

 トーラの弟

 白馬にまたがりギヨン城へ向かう少年の姿があった。

 玄関前で馬を下りる若者をサトウは客室の窓から目で追った。黄金色の髪をした美しい少年だった。あれは弟のハンスに違いない。

「トーラ、今、帰ったよ」

 ハンスはトーラのもとへ駆け寄って頬にキスをした。

「弟のハンスよ。学校の寮から帰ってきたの」

 はにかみながら笑って挨拶する少年は天使のようだった。サトウはハンスの笑顔に見惚れてしまった。

「ハンス、夏の間はここにいられるのでしょう」

「姉さんの婚約者に会いに来ただけだよ」

「お父様に反対されたわ。しばらくここにいてちょうだい。ペガサスが必要なの。あの馬に乗って私とサトウはベルリンへ戻るから」

「僕はどうするんだよ」

「ペガサスは途中の村に置いていくわ。村人はあなたの馬だってわかって、すぐに城へ戻してくれるでしょう」

「いやだよ。ペガサスが姉さんを嫌っているの、わからないのかい」

「サトウが乗るのよ。私はノアに乗っていく」

「ノアに二人で乗ればいいじゃないか」

画像 マンガハンスとトーラ

 ハンスの仕事

 サトウが南棟の広い部屋の前を通るとハンスが何かの作業に熱中していた。サトウは室内に入ってハンスの手元を見た。美しく輝くばかりの金色の縄で何かを編んでいた。

「なんてきれいな縄なんだ」

「ああ、サトウ。この細い縄を扱うのは大変なんだよ」

「何を作っているんだい」

「うーん、言っていいのかな。トーラはどこまで話しているんだろう」

 金色の縄を手にして首をかしげるハンスはまさに天使そのものだった。金色の縄と呼応するようにハンスの金髪がまぶしく輝いていた。

「うちには医術だけじゃなくて、いろんなものが受け継がれているんだ」

 ハンスは縄を編みながら話し出した。

「これもその一つ。うちは代々の縄使い。捕縛術を受け継いでいるんだ。縄とか鍵に関することがたくさん伝承されている」

「ああ、私の国でも聞いたことがある。罪人を繋ぐ時とか専門のやり方があるのだろう」

「そういう時も使うだろうけど、錠前のこととか鍵開けの術とかいろいろあって・・・とにかく大変なんだ」

 ハンスは手にしていた縄を投げ出すようにして近くの椅子に放った。

「この縄で作らなくちゃいけないものが決まっているんだ」

「決まっている?」

「僕とトーラの代は、縄梯子さ」

「えっ、縄梯子を作ることが決まっている?それは誰が決めたんだい」

「先祖代々の言い伝え。それぞれの代で必要なものが決められているんだ。実際、作った縄がその通りに使われた。例えば太い丈夫な縄を作るよう決められていた代には、大嵐が山を襲って、その太い縄で城を守ることができた。別の代には縄の先端に輪を作った。村の馬たちが湿地にはまった時、その縄のおかげでなんとか救い出すことができたんだ」

「そういう縄はいつでも必要だろう。どの代でもいつも用意しておけばいいんじゃないのかい」

「この金色の縄が秘伝なんだ。普通の縄じゃだめだったらしいよ。切れたりほどけたりして。とにかく普通のやり方じゃ助からないような事態の時にこの家の縄が使えるんだ。何か合図があるから使う時がわかるんだって。その非常時に使ったあとは、自然にほどけて縄の役目が終わるんだって」

「すごい話だね、その、にわかには信じられないような」

「この家は信じられないことばかりさ。小さい頃、おばあさまが子守唄代りに、この家の叙事詩を歌ってくれた。代々のそれはそれは不思議な話。続きが知りたくて夢中になって、かえって眠れなくなった」

 ハンスは天井を見上げて微笑んだ。

「楽しかったなあ。僕もいつかは縄を使って大活劇をやるんだ、この家の伝統を受け継ぐんだ。そう思って、縄や鍵のこと、一日でも早く習得しなくちゃ、って」

 ハンスの嬉しそうな顔を見てサトウは心が和んだ。

 サトウが見つめているのに気付いて我にかえったハンスは照れ臭そうに笑った。

「余計な話をするなって、トーラに怒られちゃうな」

 そしてまた縄を手に取ると真剣な表情で編み始めた。たしかにそれは縄梯子の形を成していた。ハンスは器用に手先を動かしたが、指先で細い縄が形を作るのはほんの何寸かだけで、編み進めるのは大変そうだった。

 サトウはハンスの真面目な作業ぶりに感心した。

「トーラも僕も、家に戻った時はなるべく編み進めているよ。家から離れている時はほかの捕縛術や縄抜けや、解錠の練習とかもするし」

画像 ハンスとサトウ

 サトウはハンスを見直した。苦労知らずのやんちゃな御曹司に思えたハンスだが、トーラの学業への熱心さを考えれば意外なことではなかった。ギヨン家には勤勉さという誇るべき気質が息づいているのだ。

「これは投げ出すわけにはいかないんだ。サトウは、投げ出すなら今のうちだよ。さっさとこの家から逃げ出したほうがいいと思うよ」

 ハンスは縄に熱中し始めてサトウへはもう見向きもしなかった。

退院の日

画像 フミ

サキの病室の窓から百日紅が見えた。赤い花。この一年いろいろなことがあった。三軒坂校舎の火災。逃げ遅れて救助されたこと。菊坂の新しい校舎。そして骨折、入院。幸い2週間ほどで退院できる見込みで9月にはまた美術学校へ通えそうだ。

 病室

「具合はいかがですか」

 ドアが開いて担当の先生が入ってきた。先生の後にもう一人、白衣を着た長身の男性が立っていた。

「院長先生の回診です」

 えっ、あなたは。そこに立っていたのは、御茶ノ水天神で会った紳士だった。

「こんにちは。また会いましたね」

「院長先生、お知り合いでしたか」

 担当の先生が驚くと院長先生はサキに微笑んだ。

「あの御札、今も肌身離さず持っていますよ」

「院長先生だったのですか。ということは、美術学校の校長先生?」

「その通り。本業が忙しくて、美術学校のほうにはほとんど顔を出せませんが」

「じゃあの時、落成式って言ってたのは、美術学校の新校舎のこと」

「おかげで無事に建造されました」

「そうだったんですね。でも私ったら、こんな姿で恥ずかしい。車にぶつかっちゃって」

「ちゃんと静養すればすぐよくなりますから。困ったことがあったら担当の先生に相談するのですよ」

 そう言うと院長先生は別のベッドへ移動して端の患者から順番に回診を始めた。

 退院の前日

 サキに面会した帰り、フミは寄宿舎へと急いだ。サキは明日退院なので顔を見るだけのつもりだったのがつい話し込んでしまい、面会時間を過ぎて追い出されてしまった。夕刻でもまだ通りは明るく肌を焦がす暑さに汗が噴き出そうだった。木蔭を選んで歩いていると歩道の向こう側に大きな荷物を抱えて歩いている若者が目に入った。あれはキャンバスじゃないかしら、8号サイズかな。

「あっ」

 フミは目を見張った。左手の肘に傷がある。あの人はいつかの人、あの時、怖い目をしていた、あの人。もう関わりたくないと思っていた。

 フミは立ち止まって若者の姿を目で追った。時間が経ったせいでフミは少し落ち着いて考えた。あの人は傷のことを人から言われて気を悪くしただけかもしれない。私が無神経に傷のことを言ったのがいけなかったんだ。フミは、あの後、自分で似顔絵を描き直してみて、男性の善良さに触れたような気がしていた。授業中に関係ないデッサンを描いて山本先生に怒られてしまったっけ。フミはあの時のあせった気持ちを思い出して苦笑いした。あの人はサキさんが捜している人に違いない。やっぱりもう一度、話しかけてみようかな。

 フミは若者のほうへ行こうとしたが車の往来が途切れず近寄れなかった。反対の歩道から後を追うと、若者は天祥堂医院へと向かい玄関から中へ入っていった。

 お医者様かしら、医学生じゃなかったのかしら。

 追いかけて事情を話さなくちゃ。サキさんきっと喜んでくれる。しかし天祥堂医院に入るのはためらわれた。面会時間も過ぎているし、受診でもないのにウロウロしていたら不審に思われてしまう。

「行くしかない。サキさんの退院祝いよ」

 意を決してフミは足を踏み出した。立派な洋風建築の医院の玄関を入り、受付の人達や廊下の看護師さん達と顔を合わせないようにして、フミはそっと辺りを見回した。あ、いた、奥の階段を上ろうとしている。

 フミは急いで廊下の奥まで行き、階段を上った。

 廊下の角を曲がると奥のドアが閉まるのが見えた。慌ててドアノブを掴んで声をかけた。

「すみません、どなたかいますか」

 退院の日

 大正12年9月1日、サキの退院の日だった。

 退院の手続きを済ませるとお世話になった方々に挨拶してから廊下へ出た。サキはメグミを待っていた。遅いな、メグミさん。

  廊下の待合室に腰かけていると、メグミが玄関から入ってくるのが見えた。

「メグミさん、ここよ」

「サキさん、遅くなってごめんなさい」

「迎えにきてくれてありがとう」

「サキさん、ちょっとこちらへ」

 メグミはサキを廊下の隅へ連れていった。

「サキさん、実はね、昨日からフミさんがいないの」

「フミさんが?いないってどういうこと?」

「昨日、寄宿舎へ帰ってこなかったの」

「ええっ、帰ってこない?」

「昨夜、先生方や皆で手分けして寄宿舎のなかを探したのだけれど、見つからなかった」

「フミさん、昨日お見舞いに来たけど」

「ええ、天祥堂医院に行くって私も聞いたわ」

「でも5時すぎに帰った」

「今朝、一応こちらの医院へ連絡はしたみたい。サキさんの病室にいるかもしれないからって」

「5時すぎに別れたあとは会っていないよ」

「わかってる。大事にならないよう内々に捜しているのよ。若い女性だから変な噂がたつのは良くないからって」

「どうしよう。昨日、てっきり寄宿舎に帰ったと思ってた。寄り道するなんて言ってなかったし」

「大丈夫。きっとじきに見つかるわ」

 

 玄関へ向かう足を止めてメグミが言った。

「サキさん、私、心配だから、医院の中を捜してみる」

「医院の人達に任せたら?かえって邪魔になるよ」

「だけど、このまま帰れないわ。ここまで来ているのに捜さないなんて嫌よ」

「わかった。じゃあ私も行く。一緒に捜しましょう」

「サキさんは折角の退院だから、どうぞ先に帰って」

「迎えに来てくれたのに、先に帰ってはないでしょう」

「そうだった、ごめんなさい」

画像 マンガ退院の日

 二人は1階の診察室や検査室の周りを歩いてみた。廊下は診察待ちの人であふれかえっていた。

「診察室は入る訳にはいかないわ」

「そうよね。さて、どうしようか。2階へ行ってみる?」

「2階はお医者さんや看護婦さんの場所よ。医局とか教授室とかがあって、普段、患者は行かないわ」

「ふーん。私、ちょっと行ってみる」

「おやめなさいよ。メグミさんが歩いていたら目立つんだから」

「サキさんはここで待っていて。あなたとはぐれて探していたことにするから」

 そう言うとメグミはすたすたと階段を上って行ってしまった。

 

 サキは仕方なく廊下の椅子に腰かけた。

 昨日、看護師さんに面会時間が過ぎていると言われて、フミはあわてて帰って行った。

5時すぎていたけれど、外はまだ明るくて、まだ暑かった。寄宿舎まで歩いて10分もかからない。大通りを通れば危険な場所はないはず。一体なぜ寄宿舎へ戻っていないのだろう。

 サキは結論の出ないまま同じことを考え続けていた。

「あ、もうこんな時間」

 いつの間にか時間が経っていた。メグミさん、どこまで行ったんだろ。

 サキは立ち上がって、階段の下から2階の様子を窺った。

「行ってみるしかないわね」

 サキは階段を上った。

 2階の廊下には誰もいなかった。午前の診察で1階は混み合っているが、2階は人気もなく静かだった。

 廊下に沿って歩いてみる。誰かに見つかったらどうしよう。サキは不安になった。メグミさん、何処にいるの。

「何をしているのです」

「ひっ」

 背後から声を掛けられてサキは驚いた。

「ごめんなさい・・」

 顔を上げると山本先生が立っていた。

 ああ良かった。知らない人だったら大変だった。

「こんなところで何をしているのです」

「あの、メグミさんが、2階へ行ったきり戻ってこなくて」

「2階へ?用もなく勝手に2階へ行ってはいけませんよ」

「すみません。あの、その、はぐれてしまって」

「こんなところにいたら不審者と間違われてしまいます」

「はい、すみません」

「今日は退院だと聞いています。あなたは寄宿舎へもどって休みなさい」

「でも、メグミさんが戻って来ないし、それに」

「私が探してみます」

「山本先生。あの、フミさんがいなくなったって」

「フミさんのことも大人にまかせて、さあ、お帰りなさい」

「はい、わかりました」

 サキは踵を返し、階段へ向かった。振り返ると、山本先生は2階の奥のほうに向かって廊下を急いでいた。

美術学校の盆休み

画像 メグミ

盆が近くなり、サキは本所の実家へ帰省することにした。実家から学校までさほど遠くはなかったが、ほとんどの生徒は寄宿舎に入るのでサキも寄宿舎へ入舎していた。

 盆休み

「今年はお盆、どうするの」

 フミがサキとメグミに訊いた。

「私は金曜に帰る。メグミさんは?」

「私はまだ決めていない。週明けに帰ろうかしら」

 実家が横浜にあるメグミは、気が向いた時に家の車を呼んで、気軽に行き来することがよくあった。

「フミさんはどうするの」

「今年は帰らないつもり。6月に法事で帰省したばかりだから」

「お父様やお母様はがっかりするでしょうね」

 フミは力なく笑った。今年、寄宿舎に残るのは不安だった。何故か落ち着かない。でも今更、帰り支度をするのは大変だ。実家が遠いフミにとって帰省は大ごとだった。実家に連絡してお金を送金してもらわなければいけないし、汽車の切符や車の手配をして、学校にも外泊届を提出しなくちゃいけない。

「そうそう、今年の夏休みは山本先生が寄宿舎の監督をするそうよ」

「えー、山本先生!うるさく監督されそうだな。目をつけられたらどうしよう」

 口うるさい山本先生は苦手だったが、人の少なくなるお盆の時期に、山本先生がいてくれるのは心強かった。フミはすこし安心した。

 帰省

「それじゃ、メグミさん、フミさん。行ってまいります」

「気をつけてね。9月の新学期に会いましょう」

 挨拶をかわしてサキを校門から送り出すと、メグミとフミは寄宿舎の庭をゆっくり散歩した。

「フミさん、このごろ変よ」

「えっ」

「なんだかいつも上の空で、びくびくしている」

「そんなことないよ」

「そう、それならいいけど」

 夏の校庭でメグミは日射しを浴びて自信たっぷりに歩いていた。まるで太陽の光はメグミ一人に向かって降り注いでいるかのようだった。メグミさん、きれい。フミはいつもながら感嘆した。

「さあ、部屋に戻って休みましょう。山本先生におこごと言われる前に」

 

 寄宿舎の玄関前では山本先生が直立不動で立っていた。頭に鉢巻を巻いた袴姿で、手には薙刀を持っている。

「遅いわよ」

「先生、どうしたのですか、その恰好」

「シスターの服はやめたのですか」

 山本先生は春のバザーで修道尼の服を購入した。大層気に入ったようで授業中にも身に着けていた。

「お遊びは終わりよ。今年の夏は、厳しく監督しますからね」

「うわ、それじゃ私、早めに帰省しよう」

「だめよ。外泊届の日付を守りなさい」

「はーい、山本先生、承知しました。フミさん、さ、早く行きましょう」

 メグミは笑いながらフミの手をとって中へ入った。

 メグミさんはいいなあ、山本先生と気軽にお話しできて。フミはうらやましく思った。私はあんな風に先生と話したりできない。今も私、先生ににらまれている気がした。気のせいかな、やっぱり気にしすぎかな。

画像 マンガ 寄宿舎の玄関

 週が明けるとメグミは横浜の実家へ帰省した。早く戻ってきてね、フミは心の中で思った。

「メグミさんは帰省したのですか」

「ひっ」

 背後から急に話しかけられてフミは驚いた。

「はい、山本先生。今、発ちました」

「あなたも淋しくなるわね。困ったことあったら何でも相談しなさい」

「はい、山本先生。ありがとうございます」

 フミは一礼すると急いで部屋へ戻った。ああ、びっくりした。でも先生、心配してくれた。よかった。やっぱり山本先生がいると心強い。

 居残り

 空が曇ってきて夕方から雨が降り出した。

 フミは寄宿舎の食堂に一人座って窓から空を眺めていた。雨足はだんだん強まり、遠くで雷の音が聞こえていた。フミは憂鬱だった。普段なら雷の鳴る雨空を見上げると、何故かわくわくするのだが、今日は気がふさいでしまう。今年の夏、帰省しなかったのはフミだけだった。広い寄宿舎に生徒は私ただ一人。誰もいない食堂で誰かに見られているかのような不安に襲われる。

 稲妻が走った。外の庭が光る。その時、フミは何かを見たような気がした。植込みの中から覗く暗い双眼のような何かを。

 ベッドで眠ろうとしていたフミは物音で目が覚めた。ドアが少し開いて、その隙間から廊下の明かりがもれた。

「だれ?」

 フミは起き上がってドアのほうへ歩いた。ドアはもう閉まっていた。

「変だな、今たしかドアが開いて」

 フミは両手で自分の肩を抱いて身震いした。夏なのに寒かった。急いてベッドに戻り布団をかぶった。

 寄宿舎廊下

「フミさん、ちょっとよろしいかしら」

 夕食の時間になり食堂へ向かう廊下を歩いていたフミは後から声を掛けられた。山本先生が燭台を手にして廊下に立っていた。

「はい、山本先生。何でしょうか」

 廊下の暗がりのなかで、山本先生の顔が燭台に照らされて浮かび上がっていた。

「私は毎晩、警備のために寄宿舎のなかをパトロールしています。フミさん、今日からは一緒に歩いてくれるかしら」

「えっ、一緒に?あの、どうして」

「一人じゃ見落としがあるかもしれないし、あなたも一人で退屈でしょう」

 山本先生は有無を言わさない強い口調でフミを見下ろしながら言った。

「今日、消灯時間の前に食堂へ来てちょうだい」

「今日?今日からもう始めるのですか」

「なにか出来ない理由がありますか」

「いいえ、山本先生。大丈夫です」

 

 その晩からフミは山本先生と一緒に寄宿舎の中を歩いた。

「何かおかしなことを見つけたらすぐに言うのですよ、ためらわずに」

「はい、山本先生。わかりました」

 人気のない広い寄宿舎は静まり返っていた。山本先生の持つ蝋燭の灯りで二人の周囲だけが仄暗く照らされていた。二人の静かな足音が高い天井に小さく響いた。

 フミは恐ろしさに身を縮めた。こんなことはやりたくない。毎晩のパトロールが苦痛で仕方なかった。

 実家

 サキは久しぶりの実家でくつろいだ。

 お盆が近付いており花やお供物の買い出しに行った。仏壇を掃除したり、提灯に破れがないか確かめたり、ろうそくを多めに揃えたりと忙しく立ち回った。お盆の時期だけでなく、仏様のお世話をすることは幼いころからの日々の習慣だった。寄宿舎に入ってからは仏様に向かい合うことはほとんどなかったので、久々に実家の手伝いをすることは新鮮でより楽しく感じられた。

 寄宿舎

 お盆が終わり、メグミが寄宿舎へ戻ってきた。

「メグミさん、お帰りなさい」

 フミは喜んで出迎えた。

「フミさん、元気そうでよかったわ。お土産があるから、あとで私の部屋へ来てちょうだい」

 メグミがいると途端に場が華やいだ。メグミの明るさの前でフミはほっと一息ついた。不安で怯えていた気持ちが吹っ切れた。

 フミはメグミに相談しようかと迷った小さな出来事を忘れることにした。夏休み前に街で見かけた腕に傷のある男。その男の怒ったような視線。夜半に開かれる部屋のドア。山本先生と歩く夜の寄宿舎。どれもくだらない出来事だ。メグミさんに言ったら笑われるだけだ。もう今日からは大丈夫。メグミさんが寄宿舎に戻ってきたんだもの。

 

 しかしメグミとフミはすぐに驚きの知らせを受取った。

 サキが車と接触して天祥堂医院に緊急入院したのだ。二人は山本先生に許可をもらって天祥堂へお見舞いに向かった。

 天祥堂医院

「具合はどう。驚いたわ」

 サキは骨折と打撲で2週間ほど入院治療が必要とのことだった。

「思ったより元気そうで良かった」

隅田川へ散歩に出た時、よろめいて車にぶつかってしまったの。すごい人混みで押し出されてしまって」

「気をつけて。サキさんらしくない。普段しっかりしているのに」

「そうよ、サキさん。もし事故に遭ったのが私だったら、フミさんらしいって言われるに決まってる」

 フミの言葉に3人は声を上げて笑った。

「夏休みいっぱいは入院になりそう。9月の新学期には退院したいな」

「あせらず、ゆっくりお休みなさい」

「うん。それに今、寄宿舎に戻っても、きっと楽しくないよ」

 フミは言った後で、しまったという顔をした。

「どうして」

「ううん。なんでもない」

「フミさん、何かあったの」

 メグミにごまかしは効かない。フミは俯いていた顔をあげてメグミを見た。

「たいしたことじゃないの、ただ・・」

「なあに。言ってみなさい」

「山本先生が・・毎晩、誘いに来るの。一緒に寄宿舎のパトロールをするようにって」

「パトロール?」

「なにそれ」

「フミさん、先生と一緒に夜の寄宿舎を歩いているの?」

「怪しい者はいないか、異変はないかって?」

 サキとメグミは顔を見合わせて吹き出した。

「二人が歩いているところ想像すると可笑しい」

「山本先生は真面目な恐い顔をして」

「隣でフミさんはビクビク怯えながら、今にも逃げ出しそうにして?」

「何に怯えているの?山本先生に?」

「ばかね、暗闇とかお化けにビクビクよ」

 サキとメグミはお腹をかかえて笑い出した。

「そうね、可笑しいよね」

 フミもバツが悪そうに笑い出した。3人で大笑いした。なんだ、おもしろい。私、どうしてあんなに怯えていたんだろう。フミは大きな声で笑いながら、メグミさん、サキさん、ありがとう、と心の中でつぶやいた。

 寄宿舎廊下

「フミさん、ちょっとよろしいかしら」

「はい、山本先生。何でしょうか」

 夕食の時間が近付き食堂へ向かって歩いていたフミは後から声を掛けられた。

 山本先生は燭台を手にして廊下に立っていた。フミはいやな予感がした。前にも廊下でこんな風に声を掛けられた。そして夜のパトロールに誘われたのだ。メグミが戻ってきてからフミは夜のパトロールはお役御免となった。ほかにも戻って来た生徒がいるのでその生徒達とパトロールをするとのことだった。

 山本先生は応接室のドアを開けてフミを部屋へ招き入れた。フミは緊張した。

「この本を覚えているでしょう」

 テーブルの上には『降霊会』とタイトルのついた洋書が載っていた。

「はい先生」

 暗い部屋の中で山本先生の顔が蝋燭に照らされていた。

「降霊会をやります」

「はっ、あの、今、なんて」

「今夜、降霊会を行います。メグミさんと一緒に、夕食のあと応接室へきてちょうだい」

「降霊会って、あの、今夜?」

「メグミさんには先程、伝えました。ほかの人に言ってはいけません。私とメグミさんとフミさん、三人で行います」

 

 フミは食事が喉を通らなかった。向かいに腰かけたメグミは平然と夕食を口に運んでいる。

「メグミさん、山本先生から聞いたでしょう」

「フミさん、山本先生は誰にも言ってはいけないとおっしゃっていたわ。ここで話すのはよしましょう」

「でも、メグミさん、承知したの?」

「承知も何も、山本先生がそう言うのだから、やるしかないでしょう」

「私、怖い。一体なぜ、そんなことを」

「山本先生に何かお考えがあるのでしょう。詮索しても仕方ないわ」

「断ってもいいかしら」

「無理よ。あきらめなさい。きっと何か私たちに手伝ってもらいたいことがあるのよ」

「メグミさん、よく平気でいられるわね」

「だって、ここで断ったら、先生、困ると思うわ。ちょっと余裕のない顔していたもの」

 

 夕食を終えてメグミとフミは応接室へと向かった。

 降霊会

 テーブルの上には蝋燭とウイジャボードが置かれていた。蝋燭の灯りに照らされて3人の女性の顔が浮かび上がっている。恐怖に歪んだ幼い顔、好奇の目を輝かせた美しく整った顔、そして、苦難を刻んだかのような厳格な顔。

「それでは始めます」

 3人の女性はボードの上の銀貨に指をかけた。

「これより降霊会を始めます。我らに力をお貸し下さる精霊たちよ。どうか我らを真実へお導きください。払えたまえ、清めたまえ、我らを導きたまえ」

 霊をいざなう言葉が発せられた後、山本先生がボードへ問いかけた。

「ユカリさん、来ていますか。ユカリさん、あなたですか」

 三人が触れていた銀貨が動いた。

(ハイ)

「きゃっ、う、うごいた」

 フミは恐ろしさに思わず声を上げた。

「フミさん。手を離しちゃだめよ」

 メグミが小声で注意する。

 フミが落ち着いたのを見計らい、少し間を置いてから、山本先生が精霊らしき存在へ質問を始めた。

「ユカリさん。あなたは、今、どこにいるのですか」

 銀貨がボードの上を迷うように動く。

(・・エ・・ノ、ナ、カ)

「エ・・・家の中ですか」

(ハイ)

「どこの家ですか」

 銀貨はボードの上を行ったりきたりしていたかと思うと、急にすごい速さでグルグル回り出した。

(イ、イ、ン)

「どこの家ですか」

(イ、イ、エ)

 三人は顔を見合わせた。

 

 フミは布団にくるまって震えていた。

 蝋燭を囲んだテーブル、勝手に動く銀貨。考えまいとしても頭のなかで今夜の場面が次から次へと浮かんでくる。そしてあのカーテン。厚いカーテンが微かに膨らんでいた。それは人の形をしていた。人間なのか異形のものなのか、それはもしかしたら応接室から抜け出して寄宿舎の廊下をさまよい歩いているのかもしれない。そしてそれは今にもフミの部屋をノックしてくるような気がして、フミは恐怖で大声をあげそうになった。

御茶ノ水天神のお札

画像 サキ

  御茶ノ水天神への石段を登りながら、サキは配色を考えていた。途中まで構図を考えた水彩画に今日こそ色を載せようと思った。先週、赤い絵の具を溶いたところでためらってしまった。あの火事の炎を思い出してしまうのだった。

 御茶ノ水天神

 早朝の境内は人気がなかった。サキは大木の根元に画材道具を置くと絵の具用に手水舎へ水をもらいに行った。

 誰かが本堂の前に佇んでいた。背広を着た長身の紳士だった。柄杓から水を汲んでいると後から声を掛けられた。

「失敬。天神さまのお札をもらうには、どこに行けばよろしいですか」

「お札?神職の人たち、まだ朝のお勤めで忙しいと思います」

「そうですか。では出直します」

 その時、社務所のほうから人が出てきた。

「あ、宮司さん。おはようございます」

「サキちゃん。おはよう。早いね」

「この方、お札がほしいそうです」

 背広の紳士は宮司のほうへ歩み出てお辞儀をした。

「朝早くにすみません。日中、時間がとれなくて」

「大丈夫ですよ。じゃ、こちらへどうぞ」

 二人は拝殿のほうへ歩き出した。紳士はサキを振り返って言った。

「きみ、ありがとう」

「どういたしまして」

 サキは微笑むと、汲んだ水を持ってご神木の脇に場所を取り、絵の制作に取りかかった。

 拝殿のほうでは祝詞をあげる声が響いていた。紳士が無事にお札をもらえそうなのでサキも嬉しくなった。つい、一緒になって祝詞をつぶやきそうになって苦笑いした。

 

 サキは藍色の絵の具を溶いた。やはり赤は使いたくない。赤い絵の具の中に藍色を足して混色で灰色を作った。鈴緒を描いたデッサンの上に、赤ではなく灰色の絵筆を近づけた。

「その鈴緒、何色に見えますか」

 突然の声に顔を上げると、先程の紳士がサキの絵を覗き込んでいた。サキは驚いて別のところに筆をおいてしまった。

「すみません。驚かせてしまった」

「いえ、大丈夫です」

「先ほどはありがとう。おかげで助かりました」

「よかった。大事なお参りだったのでしょう」

「建物の落成式を控えているので、どうしても自分で参拝したくて」

「天神さまはきっと願いを叶えてくれます」

「ありがとう。あなたにそう言われると自信がつきます」

「私も父からお札をもらって元気になりました」

「そうでしたか。ところでその色、おもしろいですね。あなたに見える景色は、私とはまるで違うのかと思って、つい声をかけてしまった」

「鈴緒をこんな色にしてしまってバチが当たりそう」

「まるっきり違う色を置くなんて面白いなと思いました。君はもしかしたら美術学校の生徒さんかな」

「えっ、美術学校のこと、ご存じなのですか」

「ええ、まあ。だが絵のことはまったく判らないのです。素人が余計な口出しをして申し訳ない。邪魔したね」

 紳士はそう言うと踵を返して立ち去った。男の手には天神さまのお札が大事そうに握られていた。

 新しい校舎

 美術学校は三軒坂ではなく桔梗坂へ新しく建築された。

 火災の恐ろしさに一時は学校を辞めようと本気で考えていたサキだったが、三軒坂へ行かずにすむことで、不安が少し和らぎ、そのまま勉学を続けることにした。新しい校舎では、以前より頻繁に医学部の授業が行われるようになった。学内は医学生と美術学校の女子生徒がひしめき合い活気に満ちていた。進級後のクラスを決めるにあたりサキは仏画を専攻することにした。師事する先生も決まり本格的に仏像や仏画に向き合う時間も増えてきて、火事のことで気を病むことは少なくなった。

 校庭

 サキとメグミは校庭を歩いていた。2月になり、葉を落とした木々の枝が木枯らしに揺れていた。

「あの火事からもう三月たつのね」

「心配かけてごめんね」

「サキさん、元気になってよかった」

「私、あの時、また目を瞑って」

「いつもの、見ざる言わざる聞かざる、ね」

「いつもじゃないよ。困った事とか、何かあった時」

「初めてあれ見た時、この人、ふざけているのかしらって思った」

「こどもの頃から言われてたんだ。何かあると、驚いたり考えたりするより前に、周りの人みんなが、サキ、見るな聞くなしゃべるなって、口を揃えて」

「信じられない、どうして」

「どうしてもなにも、それが普通なのかと思ってた」

「それにしたって、日光の三猿みたいな格好しなくたって」

「もうクセになってる。寄宿舎に入って初めて、あれ、そんなことしてる人いないんだって気付いた」

「あ、あるある。自分では当たり前だったこと、他の人と暮らしてみると、違うんだって思うことある」

「でも、後悔してるんだ。あの火事の時、私ずっと目を瞑っていたから、助けてくれた人の顔、ちゃんと見ていない」

「まあ、あの混乱じゃ仕方ないわね」

「メグミさんはあの時、私を助けてくれた人、覚えている?」

「いいえ、私は遠くから見ただけだから、顔まではわからなかった。サキさんが助け出されたのを見て慌てて駆け寄ったけど、あの男の人はまた救援に向かったから」

「そう、それで私も顔をちゃんと見ていなくて」

「どんな人か気になるの?」

「うん。気になる。あの時ちゃんとお礼を言えなかったから。いつか会えたら、きちんとお礼言いたいなって思う」

「若い人だったわよね。天祥堂の学生かしら」

「そうだと思う。天祥堂の人達があの火事に駆けつけてくれたもの」

「でも、顔を覚えていないんじゃ、どうしようもないわ」

「だけどね、私、わかるかもしれない。火事の時、その人、腕に大きな怪我をしたの。赤く腫れて痛そうだった。私をかばって助けようとしてできた怪我なの」

「大きなケガ?大丈夫だったのかしら」

「きっと今でも大きな傷痕になって残っていると思う」

「どちらの手?」

「左手。二の腕から肘にかけて大きな長方形の傷が出来ていた」

「手掛かりは左手の傷か」

「どこかで、会えたらいいな」

「じゃあ、校舎に来る学生で、そんな傷の人がいないか気を付けてみる」

「うん、お願い」

「サキさんを助けてくれた人だもの。なんとしても捜し出さなくちゃ。そして私からも御礼を言いたいわ」

「ありがとう、メグミさん。心強いよ」

「よし、今日から殿方の左手に注目よ。フミさんに話していいかしら。フミさんにも協力してもらいましょう」

 メグミはサキの瞳を覗き込んで楽しそうに言った。サキはメグミと話していると気持ちが明るくなった。

 

画像 まんがサキとメグミ

「もういっそ、天祥堂に相談してみたら?助けてもらったお礼が言いたい、傷の具合も心配していますって」

「それも考えたけど、あの時はみんな混乱していたし、怪我した人もきっと大勢いただろうから、特定は無理じゃないかな。それに、逃げ遅れただの、助けてくれた人がケガしたかもしれないだの、いまさら打ち明けたら、叱られそうで」

「たしかにそうかもね。山本先生が目をつりあげそうだわ。日頃の行いがいざという時に表れるのです!」

 メグミは生活指導に厳しい山本先生の口真似を始めた。二人は声をあげて笑った。

松田画伯の子どもたち

画像 洋平とユカリ

 朝稽古の仕上げに竹を切った。太刀の切れ味はまあまあだった。洋平は落ちた竹を片付けて庭を軽く掃いた。放っておいてもお手伝いのカヤさんがきれいに片付けてくれるのだが、師匠の深谷家元がいつも自分で道場の雑巾掛けまでしているので、洋平は稽古の後始末は自分でするようにしていた。

 洋平

 居合いを始めたのは偶然だった。師範学校の近くにある道場の庭で、いつも掃き掃除をしている老人がいた。顔見知りになり挨拶をしているうちに家元であることがわかり通うことになったのだ。

 師範学校へ入るまでは武道に接したことはなかった。しかし元来器用な洋平はどんな運動、種目も卒なくこなした。学業も優秀で身体能力も高い洋平は幼少の頃からなんでもできる子どもだった。

 洋平は広い洋館で裕福に育てられていたが、中学校に上がる頃になると、病弱だった母親が寝付くことが多くなった。お手伝いのカヤさんが雇われて、小さい妹の面倒を見ることになった。

 居合いの家元に初めて稽古をつけてもらう時、自分は器用にこの武道をこなすのだろうとおぼろげに思っていた。しかし、こなすもなにも師匠の稽古は準備体操と走り込み、そして中腰になる居合い腰の練習、そればかりで素振りさえ滅多にさせてもらえなかった。師匠は洋平が練習の手を抜くとすぐに見抜いて、さらに厳しい鍛錬を洋平に課した。基礎をみっちりやらされることに辟易しながらも、洋平は稽古に通い続けた。

 ユカリ

「兄さん、またソファで寝ちゃったのね」

 洋平は眠い目をこすり、ソファの傍に立つユカリを見上げた。カーテンの隙間から朝の光が射しこんでいた。

「絵が仕上がったの。兄さん、見に来てちょうだい」

 ユカリはソファにしゃがみこんで洋平の顔を覗いた。

「おまえこそ徹夜だったのか」

 洋平は起き上がり改めてユカリを見た。ユカリは束ねた髪を振り乱し、絵の具だらけのエプロン姿だったが、上気した頬が桃色に輝いていた。

「僕が見たって、何の批評もできない」

「批評なんかいいのよ。兄さんに見てもらいたいの。さあ、早く来て」

 ユカリになかば強引に手を引かれ、松田はアトリエに入った。

 キャンバスに描かれていたのは机の上の皿や花瓶といった静物だった。ああ、ユカリらしい絵だ。ほっとする絵だ。

「どう、兄さん、気に入った?」

「ああ、色が好きだな」

「それだけ?もっとこう、感動した、とかないの?」

「なんだよ、感動って。そんなの父さんに訊いてみろよ」

「兄さんに見てもらいたいの」

 ユカリは洋平の背中に手をまわして笑った。

「やめろよ、絵の具がつくじゃないか」

 そう言いながら洋平は苦笑いした。

画像 マンガ洋平とユカリ

 昨年、母が病気で亡くなってからユカリは自室にこもって絵画に熱中することが多くなった。それまでも画家である父の影響を受けて絵を描いていたユカリだが、母を失い、それからは一層、絵に夢中になった。父はそれを喜び、自分のアトリエの隣りにユカリ用のアトリエをわざわざ作って絵の手ほどきをした。

 洋平は絵を描くことが好きだった。しかし、父の制作の邪魔をしないようにと、小さい頃から絶えず言われていた。それを言う病弱な母を気遣っているうちに、いつのまにか人前で絵を描くのをためらうようになった。そして母が亡くなると、その喪失を振り払うかのように絵にのめり込み始めたユカリ、それを愛おしむ父。父とユカリが醸し出す絵画への情熱が家の中を支配していった。そうした気配は洋平を息苦しくさせて、次第に絵筆を持つ気力を失わせていった。

 洋平は自分の部屋で気まぐれにデッサンを始めると時間を忘れて描きこむこともあった。幼い頃は自分も画家になるのだと何の疑いもなく思っていた。だが結局、洋平は去年の秋に湯島にある師範学校へ入学した。教員になりたい訳でもなく、画家よりほかにやりたいことも見つからないまま、もうすぐ二年生になろうとしていた。

 松田画伯

 深谷師匠と知り合ってからは、師範学校の帰りに道場で稽古することが日課になっていた。ある秋の夕暮れ、道場を出るとあたりは既に薄暗くなっていた。家の門木戸を入り玄関へ向かうと庭から父の声がした。

「おかえり、ユカリ」

 植込みの奥から父がやってきて洋平の顔を見ると足を止めた。

「なんだ、洋平か」

 なんだはないだろ、洋平は心の中で言い返した。

「ユカリじゃなくて悪かったな」

「なにを訳のわからないことを言っているんだ。今、庭を見ていたのだ。先日の植木屋が切りすぎて、松も木犀も丸坊主だ」

「さっぱりしていいじゃないか」

 そう言い捨てて洋平は玄関を入った。家の中では煮物の匂いが漂っていた。お手伝いのカヤさんが夕食の準備をしていた。

「洋平さん、おかえりなさい」

 田村が近付いてコートを脱がせようとした。

「いいよ、自分でやる」

 田村はそれでも手を出そうとしたが、玄関から松田画伯が入ってくるのを見ると、すぐにそちらへ飛んで行った。田村は住込みの父の弟子で、普段は家の雑用を手伝っていた。父が見込んで弟子にしたのであろうが、洋平には田村に絵の才能があるとはとても思えなかった。ただ、実直で几帳面なところがユカリやカヤさんに重宝がられているようだった。

「兄さん、おかえりなさい」

 ユカリが階段を下りてきた。

「ただいま」洋平はユカリとすれ違い二階の自室へ行こうとした。

「兄さん、ちょっと待って。お話しがあるの」

 洋平はユカリに促されて居間のソファに座った。

 洋平の向かいに腰をおろしたユカリは背筋を伸ばして言った。

「私、美術学校へ行こうかと思うの。兄さん、どう思う?」

「いいんじゃないか。好きなようにしろよ」

 庭から戻った父が居間へやってきてユカリの隣りに腰かけた。

「私は賛成だよ。ユカリの絵には人の心に訴えかけるものがある」

「じゃ、決まりだ」

 洋平が腰を上げようとするとユカリが洋平の手をとって引き止めた。

「兄さん、私、思うんだけど、兄さんも美術学校へ入り直したらどうかしら」

 ユカリの言葉に洋平は思わず気をそそられた。

「だいたいおまえは師範学校で真面目に勉強する気があるのか」

 父が洋平に向かって言った。

「いつも帰りが遅いようだし、成績も良くないみたいだし」

 洋平は一気に気持ちが沈んだ。

「今の学校で真面目にやる気がないなら、学校を替わることも、選択肢のひとつだ」

 普段は洋平のことを気にもかけないくせに急に説教じみたことを言う。洋平は父の言葉にげんなりして、ユカリの手を振り払って立ち上がった。

「ちゃんとやってるから放っといてくれよ」

「おい、話は終わってないぞ」

「兄さん、ちょっと待って」

 階段を上り自室へ入る。父さんは僕を見ていない。ユカリのために僕に説教じみたことを言っているだけだ。

 洋平はベッドに寝転んだ。考えるのもばからしい。洋平は窓の外を見た。きれいに刈られた赤松の木が見える。僕もあんな風に父さんの気紛れで刈られてしまうのさ。どうせ美術学校へ行くユカリが心配で、僕をお目付け役にすることを思いついて言ってみただけなんだ。

 来客

「洋平さん、今日は早めに帰宅するようにと、松田画伯からの伝言です」

 朝、学校へ行こうとすると田村に声を掛けられた。そういえばこのところ父の姿を見かけない。またアトリエにこもって制作に熱中しているのだろう。ユカリの姿もここ2,3日見ていない。やれやれ、芸術家さま達の熱が入ったようだ。

「午後、お客様が見えるそうです」

「わかった。行ってまいります」

 洋平は頷いて玄関へ向かった。師範学校への道すがら、何か焦りに似た落ち着かない感覚に襲われた。先日、美術学校へ行くことをほのめかされたことが、こんなにも自分を動揺させている。父さんが師範学校を望んだんじゃないか。はっきり言われたわけじゃないが、絵の世界へ誘われなかった。それを今更、美術学校へ行けだなんて。

 洋平は市電への道を駈けだした。うじうじ考えるのは馬鹿らしい。こうなったら師範学校で上位の成績を修めてやる。洋平は胸の奥をくすぐる美術学校という甘美な言葉を振り払い、停まっていた市電に飛び乗った。 

 

 帰宅するとカヤさんから声をかけられて洋平は一階の客間へ顔を出した。部屋のなかには父とユカリ、そして見知らぬ女性がいた。

「山本先生、息子の洋平です」

「洋平、こちらは美術学校の山本先生だ。ユカリの今後について相談するためにお越しいただいた」

 洋平は挨拶を交わして端のソファに腰かけた。

「早速ですが、当校の教育方針は」

 美術学校の概要や手続きについての会話を聞きながら、洋平は自分が呼ばれた理由がわからず席を立つタイミングを探していた。向かいに座ったユカリを見ると身を乗り出して大人二人の話を聞いている。

「どうだ、洋平。いい学校だと思うか」

「はい、思います」

「ユカリはどうだ。このまま家で描いていても私は構わんが、一度、外で教わったほうがいいかもしれん」

「はい、とても興味があります」

 ユカリはそう答えながら洋平のほうを見て少し心配そうな顔をして呟いた。

「でも、その美術学校は、女性だけの学校なのでしょう?」

 洋平は驚いて思わず赤面しそうになった。この場に呼ばれたのは、自分も入学を勧められるのではないかと、どこかで期待しながら聞いていた自分が恥ずかしくなった。僕のことじゃないんだ。洋平は逃げだしたくなった。少しでも期待していた自分を罵った。

「私は兄さんと同じ学校へ行けたらいいなと思います」

「それも検討しよう。こちらの学校が気に入ったらこちらに行けばいい。洋平は師範学校を卒業したら教師としてこちらで働くのはどうだ」

 洋平は父親を睨んだ。薄目を開けて父親を睨む視線に山本先生はゾクっとさせられた。

 洋平は勢いよく立ちあがった。

「どこで働くかはまだ先の話です。今は決められません」

「わかっている。今すぐに、という話じゃない。おい、待て」

「失礼します」

 洋平は急ぎ足で客間を出た。

 

 洋平は、学校からまっすぐ家に帰ることはなくなった。道場へも足が向かなかった。カフェで欲しくもない飲物をだらだら飲んだり、活動写真を観て時間をつぶした。

 ある日、御茶ノ水の本屋にぶらりと入り適当な本を手に取って立ち読みをしていると、誰かが背後に立つ気配を感じた。

「こんにちは」

 驚いて顔を上げると山本先生だった。

「先日はお邪魔しました」

 山本先生は髪をきちんと結い上げた袴姿で、いかにも教員らしい身だしなみをしていた。

「あの後、ユカリさんの絵を見せて頂きました。とても素敵な絵でした」

 洋平はただ頷いた。

「じゃあ、急ぐので、僕はこれで」

「今度、あなたの絵も見せてくださいね」

「僕の絵?僕は描きません」

「ユカリさんが、あなたの絵は凄いって言っていましたよ」

 洋平は口の端をゆがめて笑った。

「妹が兄を誉めるって、真に受けないほうがいいですよ」

 手にしていた本を棚に戻して洋平は急いで店を出た。

 

 街をふらつきながら今にも爆発しそうになる気持ちを抑えこんだ。これ以上、振り回されるのはごめんだ。家を出て師範学校の寮に入ろうか。そうだ、留学という手もある。洋平は頭に浮かんでは消える様々な雑念に悶々としながら街をうろついた。

 田村

「田村、今度、画材店に行ったら、この絵の具もお願いね」

「はい、紅ですね」

「似た色を何色か買ってきてちょうだい」

「ちょうど今日、松田画伯のお使いで画材店に行くところです」

「じゃあ私も行こうかな。ほかの色も見てみたいし」

「では車を用意しましょうか」

「いらないわ、すぐ近くじゃない。市電に乗って行きましょう」

「わかりました。お支度できたら声をかけてください」

 ユカリは街路樹の下で市電を待った。少し前までは田村に手を引かれて外へ出かけたものだが、中学生ともなるともう一人前の女性気取りで、今日は日傘まで手にしている。日射しも強くないし傘は邪魔ではないかと田村は言ったが、お気に入りの傘をユカリは手放そうとしない。こんなところはまだまだ子どもだなと田村は笑う。

 身寄りのない田村は、松田画伯の家に住み込みで働くことができて感謝していた。松田画伯は気難しく気分の浮き沈みが大きいが、自分は言われた雑用をこなせばいいだけだし、何より田村は絵を描くことが好きだった。時々、画伯が気まぐれに絵を見てくれることがあり、褒めてもらったり手直しをしてもらったりすると、ますます絵画に夢中になった。お手伝いのカヤさんは料理と子どもたちのことしか眼中になく、自分に無関心なのも却って気楽で暮らしやすかった。

 いつか恩返しをする、と田村は決意していた。こんなに良くしてもらって松田画伯に恩返しをしたい。それは芸術で大成することだろうか、それとも身を粉にして働いてこの家に奉仕することだろうか。きっと両方かもしれない。そんな思いを抱きながら田村は松田家の人々に尽くしていた。

 市電を待つユカリはきゃしゃな身体をくねらせて通りの向こうを覗き込んでいる。その愛らしい仕草にそぐわない憂いをおびた顔立ち。どこにいても人目を惹いてしまう佇まい。田村は覆をかぶせて周囲の目からユカリを隠してしまいたくなった。なんとしてもユカリを守らなければ。それこそが自分の一番大切な仕事かもしれないと田村は強く思った。