鈍痛のなかサトウは目を覚ました。頭が重く胃がむかむかした。身体を動かしてみると左手と右足が鎖で繋がれていた。サトウは頭中の霧をかき分けるようにして記憶を辿った。興奮したトーラに注射を打たれたのだ。睡眠剤かあるいは麻薬の類かもしれない。一晩この部屋で過ごしたようだった。窓には鉄格子が嵌め込まれていたが、その向こうから明け方の気配が伝わってきた。
サトウとハンス
サトウは頭と身体の痛みにもがきながらウトウトとまどろんでいた。お日様が高く昇った午後、扉をそっと叩く音がした。廊下に誰かいるようだった。
「サトウ、そこにいるの?」
「ハンス!」
「今開けるから待ってて」
鍵を開けようとする音が何度かして扉の向こうからハンスが顔を覗かせた。
「やっと見つけた」
「ハンス、助けに来てくれたのかい」
「サトウが何処に閉じ込められたのか判らなくて探していたんだ」
「ここは城の中なのか?」
「西棟の奥だよ。牢獄のような部屋が城中あちこちにあるんだ」
ハンスはサトウの手足に付けられた鎖を手に取り、しばらく見つめるとあっさり解錠した。
「鍵を開けるのはすぐ出来るけどトーラの目を盗んでサトウを探すのは大変だったよ」
「恩に着る。ありがとう、ハンス」
「サトウ、すぐに城を出たほうがいい」
「ああ、私もそうしたい」
「トーラは何をしだすかわからない」
「母親に城の継承を否定された。そのショックを私は分かってやらなかった。いや、私自身、この城を継ぐのはハンス、君だと思い始めていた。トーラはそれを感じ取って怒りの矛先を私に向けたのだろう」
「ギヨン家を継ぐのはトーラだよ。ずっとみんなそう言ってた」
「それでも運命というものがあるのだ。自ずと誰が当主になるのか皆わかり始める時がくる」
「僕はそんな気ないよ。黄金の鍵はお母様からもらったけど。そうそう、トーラは鍵を握りしめて離さず自分のものにしちゃったんだ」
「秘薬は?」
「秘薬には目もくれず床に置きっぱなしだったから僕が持ってる」
ハンスは懐から麻袋を取り出した。
「サトウ、ペガサスに乗って山を下りて」
「君はどうするんだ」
「トーラには八つ当たりする相手が必要さ」
「しかし今回は尋常でない興奮状態だ。これで私までいなくなったら」
「僕は子どもの頃から慣れているから」
「私が逃げたことを知ったらトーラは」
「日が落ちてから馬小屋に来て。誰にも見つからないように」
「ハンス、君が心配だ」
「いいから。僕にまかせて。ペガサスはちゃんと麓の村までサトウを連れて行ってくれる」
幽閉のサトウ
「食事だ」下僕の声がして、扉に取り付けられた小さな窓からパンが差し入れられた。解錠したことは下僕にばれていないようだった。牢獄のような部屋がたくさんある城、幽閉された者に淡々と食事を運ぶ下僕。サトウは改めて恐怖を感じた。婚約者の生まれた家を訪問しただけのつもりが、常軌を逸した世界に滞在していたのだ。
まだ身体が重くてドアまで動くのも辛かった。城を出る日没までに体力を回復させなければ。なんとか食物を飲み込み、ハンスが自由にしてくれた手足を少しずつ動かして身体を慣らした。
トーラにはすまないと思う。しかし半狂乱となったトーラにはどんな言葉も通じないだろう。人に薬を打って閉じ込めるとは、まともな精神状態とは思えない。このままでは身の危険を感じる。夏休みが明けてトーラがもし大学に戻ってきたら、話し合うのはその時だ。夏休み、なんて平和な響きだ。そんな日常に戻れる時が来るのだろうか。今はとにかくこの城から逃げなければ。
馬小屋
日が落ちるとサトウはそっと扉を開けて廊下へ出た。西棟と聞いていたので馬小屋までの方角はすぐにわかった。誰にも見つからず上手く庭へ出て馬小屋まで辿り着いた。
「サトウ、ここだよ」
白い馬の手綱を引いてハンスが植え込みから現れた。
「サトウ、これを持っていって」
ハンスは麻袋を手にしていた。
「これは秘薬じゃないか。こんな大事なもの持ち出せない」
「いいんだ。もう要らない。研究にでも使ってよ」
「だめだ、これは家宝だ」
「サトウは僕が当主になるって言ったでしょう。それが本当なら僕はこんなの受け継ぎたくないよ」
「ハンス、これはギヨン家のものだ。僕は預かることはできない」
ハンスは力なく頷くとペガサスの顔をそっと撫でた。
「ペガサス、サトウを村まで送り届けてね」
サトウはハンスを抱きしめた。
「ありがとう、ハンス」
ハンスはサトウの背中に手を回しギュッとしがみついた。
「サトウ、いつかまた会えたらいいね」
ハンスに別れを告げてサトウはペガサスにまたがり城を後にした。サトウは一度だけ振り返った。ハンスの白い顔が闇に浮かんでいた。宵闇のなかでそこだけ光り輝いて、ハンスは天使のように佇んでいた。